座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

●三六協定の締結●

2011年08月29日 19時18分14秒 | 労働法
労基法36条では、三六協定の締結について、事業場の労働者の過半数を代表するものと書面によって協定する旨を規定しています。この過半数代表者は、労基法41条の管理監督者はなれません。また、投票や挙手によって選出されなければならないこととなっています。

◆彼のナジル人としての聖別の期間には、

2011年08月29日 19時12分31秒 | 聖書
ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。(民数六・四)

ナジル人には数々の誓いがあるが、その一つに、ぶどう酒を飲まないことがある。この義務に違反しないために、彼らはぶどう酒の酢になったもの、濃い酒を飲むことを禁じられていた。そしてこの規則をさらに明確にするために、未発酵のぶどう液にも触れてはならず、なまのものでも干したものでも、ぶどうを食べることさえならなかった。その誓いを完全に守るために、ぶどうにかかわるすべてのものを食べることが禁じられた。それは外見的な悪をも避けるためであった。
たしかにこれは、主に聖別された人々に対して教訓を与える。あらゆる形の悪から遠ざかること、醜悪な形のものを避けるだけでなく、その精神も類似物も避けることを教える。今日、厳正な生活は軽蔑されている。しかし、親愛なる友よ。心を安んぜよ。厳正な生活は、最も安全で最も幸福な生活である。世俗に対して一歩でも譲歩するものは、恐るべき危険の中にある。ソドムのぶどうを食べる者は、すぐにゴモラのぶどう酒を飲むことになる。オランダの防波堤の小さな割れ目が海水を侵入させるなら、それは急速に大きくなり、ついに一州が水でおおわれるようになる。世俗との妥協はどれほど小さなものでも、たましいにとってはわなであり、いよいよ深く罪に陥らせる傾向をもつ。
そのうえ、ぶどう液を飲んだナブル人は、それがある程度まで発酵しているかどうかはっきりせず、そのため心の中で誓いが守られているかどうかわからなくなる。そのように世俗と妥協するクリスチャンは、罪意識のない良心を保つことができず、心の中の戒告者は彼を疑うことになる。疑わしいものについて、疑う必要はない。それは私たちにとって悪である。私たちは誘惑するものに対して手を出してはならない。ただ逃げ去ればよい。偽善者としてさげすまれるよりは、むしろ清教徒として冷笑されるほうがよい。油断なく生活するには、自己否定が必要であろう。しかし、それは楽しいものであり、また何にもまさる報酬である。


出エジプト記8章20-25節

2011年08月29日 06時09分16秒 | 聖書
8:22 「わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。」 次に、主がこのエジプトの国にもたらそうとされた不思議な業は、アブの群れをもたらすということでした。それをおくる前に、主はモ-セをパロの下に遣わして、イスラエルの民をこの国から去らせて、主に仕える働きをさせなさいと、語らせました。しかも、その時に、アブの襲来によってもたらされる苦しみは、このエジプトの地全体に到来するけれども、イスラエルの民がいるゴシェンの地には到来しないであろうと告げたのです。それによって、神様がこのイスラエルの民と共にいて、この民を特別に守っていて下さるということを知らせるためでした。真の神が、イスラエルの民と共におられるということを示すためでした。それを知らせることによって、エジプトからの民の解放をパロに許可させるためでした。特別に、主の民への配慮を示すことによって、主の力を示されたのです。

◆借金人生のいましめ

2011年08月29日 06時03分34秒 | 聖書
富む者は貧しい者を支配する。
借りる者は貸す者のしもべとなる。  (箴言二二7)

人生の成功者とは、このような人だと定義した人がありました。
・ 金を支配できる人。金に使われず、金を支配できる。
・ 人を支配できる人。人の奴隷とならず、人を指導できる。
・ 自分を支配できる人。自分のきたない、みにくい欲望にふりまわされないで、自分をコントロールできる。
確かに、うなずける一つ一つだと思います。
借金の経験のある人は多いと思います。借金を返す当てのない人が借金すると、借金の奴隷となり、破たんを招く例も、非常に多いと思います。高利貸しから百万円を借りて競馬でもうけようとしたが大損し、ついに、親や兄弟の身代まですってしまった人のことを聞きました。
自分のできること以上に借りてやっていこうとするのは、しょせん無理ではないでしょうか。自分自身の心の中に、エネルギーというか、わきあがる力を持たない者が、他人のものをたよりにして生きる人生は、借金で身を破滅に追いこむ生き方に似ています。
イエス・キリストは、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四13―14)と言われました。ヤコブも、こう語りました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(ヤコブ一5)。
神から与えられたいのちの水を飲んで、それに従って生きる時、ほんとうの人生の成功者となるのではないでしょうか。


◆神よ。御恵みによって、私に情けをかけ……。

2011年08月29日 05時58分46秒 | 聖書
(詩篇五一・一)

ケアリ博士が重病の床にあった時、「もしこの病が致命的なものならば、あなたの葬式の時の説教にはどの箇所を読みましょう」という質問がなされた。博士は、「私のような罪深い者は、話してもらう値打ちもありませんが、どうしても葬式の説教をしなければならないのでしたら、『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください』の所をお願いします」と答えた。さらに博士は、これと同じ謙遜な心をもって、自分の墓石に次のように書くように遺言し、これ以外のことは記してはならないと言った。
 ウィリアム・ケアリ
 一七六一年八月十七日 生
 ………………………… 没
「みじめにして貧しく、力のない虫のような私
は、あなたの優しい御手によって眠る。」
最も経験の深い、最も尊敬に値する聖徒は、ただ無代価の恵みという足場によってのみ神に近づく。人間の中で最高の部類に属する人たちは、自分たちが単なる人間にすぎないことを知っている。積荷のない船は、水上に高く浮き上がるが、多くの荷を積んだ船は、水中に船体を沈めている。口先のみの信者は大言壮語するが、真の神の子は自分がふつつかなしもべであることを認め、神の恵みを求めて叫ぶ。
私たち自身の良き働き、祈り、説教、施し、そして最も神聖な物事の上にも主のあわれみを求めなければならない。血はイスラエル人の家の入口の柱だけではなく、聖所にも、恵みの御座にも、祭壇にも注がれていた。罪は私たちの最も神聖視するものの中にも侵入するからである。そこにも汚れをきよめるためにイエスの血潮を必要とするのである。もし私たちの義務にも恵みを求めなければならないとしたら、まして罪に対してはどれほどであろう。
尽きることのないあわれみが、私たちを祝福し、信仰の後退を回復させ、私たちの砕かれた骨を喜ばせようとして待機しているとは、なんと快いことだろう。