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生活保護の重要性指摘

2011年08月27日 19時44分00秒 | セーフティーネット
京都 「大震災と生存権」研修会

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 災害法制と生活保護を学ぼうと「大震災と生存権」と題した研修会が26日、京都市内で開かれました。主催は、生活保護問題対策全国会議(尾藤廣喜代表幹事)と全国公的扶助研究会(吉永純会長)です。27日までの予定。

 吉永会長が主催者あいさつで「貧困率が16%と史上最悪の状況の中で、財政負担の観点から生活保護を抑制しようとする動きがある」と批判。「東日本大震災の未曽有の危機を乗り越えるには、今こそ、生活保護制度が重要となっている」と強調しました。

 大分大学教育福祉科学部の山崎栄一准教授は、災害法制の全体像を明らかにしつつ被災者の個別支援の具体化について講演。被災者支援をすすめるにあたって、支援法制の改正に向けて運動を広く展開していくべきだと呼びかけました。

 神戸市の元ケースワーカーで現在、神戸公務員ボランティアの觜本郁(はしもと・かおる)さんは、大震災で生活基盤を失った被災者のために生活保護制度が活用されるべきなのにもかかわらず、生活保護申請、開始した件数が少なすぎると指摘。▽避難所でも生活保護が受けられる▽義援金等受け取りで生活保護は廃止すべきでない―など制度の適切な運用を紹介しました。



◆主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。

2011年08月27日 17時57分43秒 | 福祉
(詩篇三一・五)

この聖句は、聖い人々が臨終の際にしばしば用いたものである。信仰深い人の生死を通じての目的は、その肉体財産などにはなく、その霊にある。これが彼の最も大切な宝であり、これが完全であれば、すべてはよいのである。たましいに比べれば、この朽ちてしまう肉体は何であろう。信者は、自分のたましいを神の御手にゆだねる。それは神より出たものであり、主ご自身のものである。主はそれを支えてこられ、それを守ることがおできになる。主が信者のたましいを受け入れられるのは、実に当然なことなのである。
主の御手の中にあれば、すべては安全である。私たちが主にゆだねるものは、現在も、また私たちが急いでいるかの日にも安全である。天の守りの中に憩うならば、生きている日には平和があり、死んだ後には栄光がある。私たちは常に、私たちのすべてをイエスの忠実な御手にゆだねなければならない。その時、いのちは風前の灯火のようであり、患難は砂のように多くても、たましいは安らかであり、静かな安息所に憩う。
贖いは信頼の確実な基礎である。ダビデは、私たちが知るようにはカルバリを知らなかった。しかし、限定された贖いが彼を力づけた。それなら、永遠の贖いは、さらに快く私たちを慰めないであろうか。現在の助けのためには、過去における救いが強い訴えをなすのである。主はこれまでになされたことを、再びなされる。なぜなら主は変わらないからである。主は約束に対して忠実であり、聖徒に対してあわれみ深くあられる。主はその民を見捨てられることはない。
 あなたは私を殺されますが、私は信頼し
 ちりの中からであっても、あなたをほめたたえ
 語り尽くせないあなたの愛を
 人々に示し、語ります
 あなたは懲らしめ、正されますが
 無視することはなさいません
 身代金は支払われ、
 あなたの愛で私の希望は満たされます


東京新聞(2011.8.25)に生活保護制度改革に関する記事が掲載!

2011年08月27日 16時10分16秒 | セーフティーネット

生活保護制度改革 密室協議に募る不安 


生活保護制度の改革を目的に進められている国と地方の協議に対し、受給者らが不満を募らせている。医療費の自己負担導入など、制度の縮小が議論されているのに、協議が非公開で、受給者が意見を述べる機会が一切設けられていないからだ。暮らしの実態を訴える受給者の声に耳を傾けた。
(稲田雅文)

 「仕事がないのに生活保護を打ち切るとしたら、死ねっていうことですよね」と東京都内在住の四十代男性。二年半前から生活保護を受け、求職活動を続けている。今も、家族を養える仕事は見つからず、週一回、ハローワークで求人情報端末を操作する。
 七年前、長女の誕生を機に岩手県から単身東京へ出て仕事を探した。派遣社員として職を転々とした後、車の整備工場に勤めていた二〇〇八年末、派遣切りに遭い、失業。日比谷公園の年越し派遣村に身を寄せ、生活保護を申請した。

 厚生労働省によると、六月の有効求人倍率(季節調整値)は〇・六三倍で、雇用情勢は依然厳しい。協議では、失業した現役世代の受給者への対策が焦点の一つ。こうした世帯は〇八年のリーマン・ショック後から倍増。四月現在で二十四万三千五百世帯に上る。
 受給者が最も懸念するのが、自立を促す狙いで生活保護に期限を設ける有期保護の導入だ。提案した地方側は「機械的に保護を打ち切る制度にしてほしいという趣旨ではない」と協議で火消しに努めたものの、受給者の不安は尽きない。

 都内の三十代男性は統合失調症で就労が困難な境遇。十年以上前から生活保護を受け、検討されている医療費の一部自己負担導入に不安を感じている。
 同じ病気の妻と二人暮らし。お互い一人で病院に行くのは難しく、通院の際は互いに付き添う。生活保護制度から「通院移送費」として出る一人分の交通費を除き、付き添い分は生活を切り詰めて捻出する。自己負担が導入されると、夫婦合わせて月十回以上ある通院によって生活費がさらに削られる。男性は「私たちにとっては大きな問題。なぜ弱い人を苦しめようとするのか」と訴える。

 「わたしたちの声を聞いてください!」。八月十日、生活保護の受給者や支援者ら七十人が厚労省前の日比谷公園を起点に、声を上げながら東京駅近くまでデモ行進をした。
 参加者は「有期保護では生存権は守れない」「自己負担の導入はいのちの値引き」などと書かれた看板を掲げてアピールした。

 責任者を務めた東京都内の四十代男性も生活保護を受給する。昨年六月、職場での嫌がらせが原因でコンビニを退職。職を探しているときに体調を崩し、生活保護を申請した。今回の協議を知り、仲間とともにデモを準備した。「受給者の意見が反映されるべきだ」と話す。



愚痴屋

2011年08月27日 15時38分25秒 | 日記
昨日TV を見ていたら愚痴を聞くことで稼ぐ副業があると言うことでネットで検索しましたがスタッフになるには20万円の講習費がかかると書いてありました。
TVでの情報は都合がいいものでしか流れないのが解りました。

出エジプト記8章8-15節

2011年08月27日 11時22分51秒 | 聖書
8:8 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」蛙をこの地にもたらすということは、エジプトの魔術師にもなすことが出来たことでした。しかし、この蛙が登ってきたということ事態は、パロに取ってはつらいことでした。自分たちの国の魔術師が同じようなことが出来たとしても、それによって、この蛙を消すことが出来たわけではありません。彼にとっては、苦しみであったのです。それは何故かと言うと、蛙はあちらこちらにいるということだけではなくて、自分の部屋にも入り、自分の周りにもたむろするものとなったからです。彼にとっては、王でありますので、そんなものがそばにいることはありませんでした。従って、嫌なつらいことであったのです。自分の魔術師に追い出してもらえば良いと思うのですが、彼等にはそれは出来なかったのです。ですから彼は、自分の持つ辛さから、モーセに対して、蛙を除いてくれと願ったことでした。

◆まことの謙遜

2011年08月27日 10時58分41秒 | 聖書
謙遜と、主を恐れることの報いは、
富と誉れといのちである。      (箴言二二4)

ここに、人生の三つの祝福がずばり指摘されています。
* 富。物質的な祝福です。やはり、そういう物的、肉体的祝福が私たちには必要です。
* 誉れ。神と人とに受け入れられ、愛され、時にはほめていただけること。
* いのち。心の中に、永遠につながるいのちのエネルギーを持つこと。愛や喜びや平和ないのちを感じることは、生けるしるしともいえます。これは根本的な祝福です。
こんな人生の祝福を神から受け、人からも受けていく根本的な人生の姿勢は、謙遜であり、主(神)を恐れることだと、聖書ははっきり語っています。
謙遜ほど、にせものとほんものがまぎらわしいものはないと思います。私なども時々、「謙遜だ」などといわれることがあります。しかし、心の底で、いつも、「そうでない」「私の謙遜なんて、まだまだまやかしものだ」と感じるのです。偽りの謙遜とは何でしょうか。自分の持たないものを、持っているように思い、そのように見せかけるなら、これはもちろん不遜です。しかし、自分が持つものさえ持っていないように見せかけるなら、それはごうまんです。
ほんとうの謙遜とは何でしょうか。
・ 自分の持っているものと持っていないものを正直に認めること。
・ 自分の持っているものが一つ残らず神からの恵みの授かりものであり、何一つ自分のものだといえないことを確認すること。
・ すべての与え主、すべての支配主である神の前にひれ伏し、神に従い、神に仕えていくこと。富や権勢や人の知恵ではなく、「主を恐れる」ことこそ、真の謙遜ではないでしょうか。


◆この民は……いつまでわたしを信じないのか。

2011年08月27日 10時54分02秒 | 聖書
(民数一四・一一)

努めて不信仰の怪物を追い払え。それはキリストをこの上なく辱しめるものである。したがって、もし私たちが不信仰にふけることによりキリストを侮辱し続けるならば、主は私たちの前から姿を隠されるであろう。不信仰は雑草のようである。私たちは、その種子を土の中から完全に取り去ることはできないが、熱心に、かつ根気よくその根を枯らすように努めなければならない。憎むべきものは多くあるが、不信仰こそ最も憎むべきものである。
信者よ。あなたの場合にも不信仰は最も恐るべきものである。過去においてあなたが主の恵みに浴したという事実が、今、主を疑うというあなたの罪の重大さを倍加させるからである。主イエスを信頼しない時、主が「見よ。束を満載した車が押えつけるように、わたしはあなたがたを押えつける」と叫ばれるのはもっともなことである。これは最も鋭いいばらの冠を主の頭に押しつけることである。夫に愛されている妻が、真実な夫を信頼しないのはきわめて残酷なことである。その罪は愚かであり、赦しがたいものである。イエスは私たちに、いささかも疑う根拠となるものを与えられなかった。常に愛を注ぎ、誠実を尽くして交わってきた者から疑われるのは、つらいことである。
イエスはいと高き方の御子であられ、無限の富をもたれる。この全能者を疑い、満ち満ちた方を信頼しないのは恥ずべきことである。もしキリストが単なる水槽であるなら、あるいはその恵みはすぐに尽きてしまうかもしれない。しかし、だれが泉を飲み尽くすことができよう。無数のたましいがキリストから供給を受けたが、一人でも不足を訴えた者はいない。だから、このうそつきの不信仰を追い出せ。なぜなら不信仰の唯一の使命は、私たちと神との交わりを断ち、救い主のおられないことを嘆かせることにあるからである。バニヤンは「不信仰は、化け猫のように何度でも生まれ変わる」と言っている。それならまず手始めにその一匹の化け猫を殺し、続けて後のものも殺そうではないか。