座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆わたしは……ヤコブの子らに「むなしくわたしを尋ね求めよ。」とも言わなかった。

2011年08月21日 19時53分25秒 | 聖書
(イザヤ四五・一九)

神が語られなかったことを考える時、私たちは多くの慰めを得る。神が語られたことは、ことばでは表せない慰めと喜びに満ちている。しかし、神が語られなかったことも、決して慰めに乏しいものではない。ヨアシュの子ヤロブアムの時にイスラエルが滅ぼされなかったのは、この「言わなかった」ことの一つの場合である。「主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった」と記されている。
今夜の聖句には、神が祈りに答えてくださる約束がある。なぜなら神は「ヤコブの子らに『むなしくわたしを尋ね求めよ。』とも言わなかった」とあるからだ。あなたは、自分に対する苦々しさを痛感する。しかし、あなたの疑いや恐れが何と言おうと、もし神があなたを恵みから切り離されなかったならば、決して絶望する必要のないことを覚えよ。良心の声も、神の声がそれに賛成しなければ重みはほとんどない。神が告げられたことに対して震えおののけ。しかし、無益な思いが失望と罪深い自暴自棄をもってあなたを圧倒するのを許してはいけない。多くの小心な者は、神が自分を希望から閉め出すように定められてはいないかと疑って心を騒がせる。しかしここに、そのような恐怖に対する完全な反論がある。なぜなら、真実に求める者が怒りに定められることはあり得ないからだ。「わたしは隠れた所、やみの地にある場所では語らなかった。」「またわたしは、はかりがたいわたしの定めの、隠れた所でも言わなかった。『むなしくわたしを尋ね求めよ』と。」
神は、呼び求める者の祈りを聞くことを、はっきりと宣言しておられる。そして、神がその宣言に違反されることは決してあり得ない。主は率直に、また明白に「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われる。おお、おののく者よ。この確かな真理を信ぜよ。祈りは必ず聞かれることを。そして、永遠の隠れた所においても、主は生けるたましいに「むなしくわたしを尋ね求めよ」とは決して言われなかったことを。


出エジプト記7章9-13節

2011年08月21日 09時24分01秒 | 聖書
7:11 そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。 神様は、イスラエルの民をエジプトから導き出すために、不思議な業をアロンとモーセに行わせました。そのことによって、主なる神の力を示し、真の神がどなたであるかと示して、その方を恐れることを学ばせるためでした。初めに、主によって命じられて行った業は、手に持っている杖を蛇に変えることでした。その業をアロンが行いました。ところが、それによってパロは驚くかと思ったのですが、驚きませんでした。彼も、自分の国にいる魔術師に同じような業をさせて、対抗させました。従って、パロは、主の求めたイスラエルの民を、エジプトから解放しようとしませんでした。 時々、キリスト者が良い働きをして、主の民として証を立てることがあります。人々はそれを見て、キリスト者でなくても同じような良い働きをする人はいくらでもいるよと言って、語られることに耳を傾けない人がいます。忍耐と継続が、伝えることには、必要なのです。

◆好ましい財宝

2011年08月21日 09時09分55秒 | 聖書
知恵のある者の住まいには、
好ましい財宝と油がある。
しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。(箴言二一20)

昔の侍的日本人は、「武士は食わねど高ようじ」と、経済的な祝福を軽んじて意に介しない態度をとりましたが、現代の日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれるほど、金・金・金と経済的祝福の追求一点張りになったように見えます。
私たち生身の人間にとって、経済的な祝福が、やはり安定した一生や幸福の大切な要素であることを、しっかり直視する必要があります。聖書は、「知恵のある者の家には経済的祝福もある」と言っています。その知恵とは、いったい何でしょうか。
第一は、「足るを知る心」だと思います。パウロは、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ四11)と言いました。いくらあっても、自分のためにもっと欲しいと、満ち足りることも与えることも知らない人は、死海のようです。流れこむばかりで出さない死海は、文字どおり死の海です。
第二は、「生産的な健全で強い心」だと思います。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四13)と言いました。たとえ、一億円あったとしても、東京のたった百坪の土地の値段です。しかし、どんな時にも、愛し祈り働き仕える、力強い心を与えられている。――これこそ、「好ましい財宝と油」、尽きない泉です。
第三の祝福の大もとは、「神を心の真ん中に持つ心」です。パウロは言いました。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ四19)。金や土地や家屋敷を持つことよりも、すべての富や必要を全部所有し、これを必要に応じて与えてくださる与え主を「私の神」としていただいていること。――これほどの祝福があるでしょうか。


◆人を潤す者は自分も潤される。

2011年08月21日 09時06分03秒 | 聖書
(箴言一一・二五)

私たちはここにおいて大きな教訓を与えられる。すなわち、得るためには与えなければならず、蓄えるためには、まず散らさなければならない、ということである。幸福を願うならば、まず他人を幸福にしなければならない。霊的に盛んになるためには、他人の霊的向上を計らなければならない。人を潤すことによって、自分自身も潤される。どのようにしてであろうか。
他人の益になろうとする努力が、私たちを有用にする力を導き出す。私たちは、潜在的な才能と眠っている能力をもっている。それは働かせることによって発揮される。私たちの活動力は、私たち自身にも隠されており、主の戦いを戦い、険しい山をよじ登るまでは、自分にその力があることに気づかない。やもめの涙をぬぐい、両親のない子どもの悲しみを慰める時、初めて自分のうちに優しい同情の心があるのに気づく。
私たちは他の人を教えようとして、しばしば自分自身に対する教訓を得る。ああ、ある人々は病床においてなんという恵みの学課を学んだことであろう。私たちは聖書を教えようとして出て行き、かえって自分の知るところの浅いことを発見し、赤面して帰る。貧しい聖徒と話し合って、私たちに対する神の道をさらに完全に教えられ、神の真理に対するさらに深い洞察力を与えられる。
人を潤すことで私たちは謙遜になる。今まで気づかなかった恵みがいかに多いかを見いだし、貧しい聖徒がいかに知識において私たちにまさるかを発見する。
他の人のために働くことによって、自分自身の慰めもまた大きくなる。私たちは他の人を励ますために力を尽くす。その慰めは私たち自身の心を喜ばす。それはちょうど雪の中に二人の男がいて、一人が、死に瀕しているもう一人の男の手足をこすることで、自分の血液の循環がよくなって助かった物語のようである。
ツァレファテの貧しいやもめは、乏しい食物を分けて預言者を助けたが、それから後、乏しさを経験しなかった。だから、与えよ。そうすれば、あふれるまでにして返されるであろう。