座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

出エジプト記5章1-9節

2011年08月14日 06時29分14秒 | 聖書
5:6 その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。5:7 「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。」 モーセとアロンは、主の命令とまた民の期待に応えて、その働きのために、歩みを始めました。エジプトの王パロの下に行って、神の言葉を伝えました。「わたしの民を行かせよ」と、主が語っておられると告げたのです。ところが、パロはその言葉に全く耳を貸しませんでした。主とは何者かと言い、なぜ私が従わなければならないのかと言って、聞くことをしませんでした。さらに、パロは、モーセたちが来たのは、民の苦役を休ませようとしているのだと告げました。だから、さらに民の苦しみを増そうというのです。その苦しみは、今まで煉瓦を作るためにわらを提供していましたが、今後はそれを自分たちで集めるようにさせるということでした。モーセ達の働きによって、民の苦しみが増してしまったのです。つらいことでした。しかし、神の言葉が聞かれるためには、いつでも、継続と忍耐が必要なのです。

◆神の求めたもういけにえ

2011年08月14日 06時23分18秒 | 聖書
正義と公義を行なうことは、
いけにえにまさって主に喜ばれる。(箴言二一3)

昔のエルサレムの神殿は、一日中、ささげられるいけにえの煙でもうもうとしていたのではないでしょうか。しかし旧新約聖書を通して、いけにえについて同じことがいわれているのです。
* サムエルは言いました。「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサムエル一五22)。
* ミカは言いました。「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ六8)。
* イエス・キリストは言われました。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(マタイ九13)。
神は、形式だけのいけにえや祭りや行事や祈りを憎まれます。神が喜ばれるのは、正義と公義を行うことです。そして、人間が行うべき、いいえ行いうる第一の公義・第一の正義とは何でしょう。
姦淫と殺人の罪を神の前ばかりか、人の前にも言い表して悔い改め、深い神の愛と恵みによって、人生をつくりかえられるような祝福を体験したダビデは、こう神の前にうたいました。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一16―17)。
悔い改め、その砕かれた心に、まことに正しく、きよいお方を受け入れる。――このことこそ、神がお喜びになる公義・正義の根本的なものではないでしょうか。そこから、神に喜ばれ神を喜ぶ、祝福された豊かな人生が出発するのです。


◆主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました……。

2011年08月14日 06時19分25秒 | 聖書
(詩篇九二・四)

あなたは自分の罪が赦され、キリストが罪の完全な贖いを成し遂げられたことを信じるか。もしそうなら、喜びにあふれたクリスチャンとなるべきである。日常の試練や苦難から超然として生きるべきである。罪が赦されたからには、どのようなことが起こっても恐れる必要はない。ルターは言った。「主よ。私を打ってください。私の罪は赦されたからです。あなたが赦されたのですから、みこころのままに強く打ってください」と。あなたも同じ思いで、「私に病を、貧しさを、損失を、苦難を、迫害を、あなたの望まれるものを送ってください。あなたは私を赦されたので、私のたましいは喜びます」と言うことができる。
クリスチャンよ。あなたがこのように救われたのであれば、喜ぶとともに感謝し、親愛の情を抱け。あなたの罪を取り去った十字架にすがれ。あなたに仕えられた方に仕えよ。
あなたの熱心は、少しの歌を歌ったぐらいで消えてしまうようなものであってはならない。あなたの愛をはっきりしたしるしで表せ。あなたを愛された主の兄弟を愛せよ。どこかに足の不自由なメフィボシェテがいるなら、ヨナタンのために助けよ。もしあわれな試練に会う信者がいるなら、彼と共に泣き、彼の十字架を担え。――あなたのために泣き、あなたの罪を負われた方のゆえに。
あなたはキリストのゆえに無代価の赦しを受けた。だから出て行って、他の者に罪の赦しの喜ばしい知らせを伝えよ。このことばでは言い尽くせない祝福にひとりで満足しているのではなく、十字架の物語を広く宣べ伝えよ。神聖な喜びと神聖な勇気はあなたを良い説教者とし、この世のすべての場所が説教の講壇となるだろう。喜びにあふれた聖潔は、説教を最も力あるものとする。しかし主が自らそれをあなたに与えられる。この世に出かける前に、今朝それを求めよ。あなたが喜んでなしていることが主のための働きであるなら、喜びすぎていることを恐れる必要はない。

詩篇九二・四)

あなたは自分の罪が赦され、キリストが罪の完全な贖いを成し遂げられたことを信じるか。もしそうなら、喜びにあふれたクリスチャンとなるべきである。日常の試練や苦難から超然として生きるべきである。罪が赦されたからには、どのようなことが起こっても恐れる必要はない。ルターは言った。「主よ。私を打ってください。私の罪は赦されたからです。あなたが赦されたのですから、みこころのままに強く打ってください」と。あなたも同じ思いで、「私に病を、貧しさを、損失を、苦難を、迫害を、あなたの望まれるものを送ってください。あなたは私を赦されたので、私のたましいは喜びます」と言うことができる。
クリスチャンよ。あなたがこのように救われたのであれば、喜ぶとともに感謝し、親愛の情を抱け。あなたの罪を取り去った十字架にすがれ。あなたに仕えられた方に仕えよ。
あなたの熱心は、少しの歌を歌ったぐらいで消えてしまうようなものであってはならない。あなたの愛をはっきりしたしるしで表せ。あなたを愛された主の兄弟を愛せよ。どこかに足の不自由なメフィボシェテがいるなら、ヨナタンのために助けよ。もしあわれな試練に会う信者がいるなら、彼と共に泣き、彼の十字架を担え。――あなたのために泣き、あなたの罪を負われた方のゆえに。
あなたはキリストのゆえに無代価の赦しを受けた。だから出て行って、他の者に罪の赦しの喜ばしい知らせを伝えよ。このことばでは言い尽くせない祝福にひとりで満足しているのではなく、十字架の物語を広く宣べ伝えよ。神聖な喜びと神聖な勇気はあなたを良い説教者とし、この世のすべての場所が説教の講壇となるだろう。喜びにあふれた聖潔は、説教を最も力あるものとする。しかし主が自らそれをあなたに与えられる。この世に出かける前に、今朝それを求めよ。あなたが喜んでなしていることが主のための働きであるなら、喜びすぎていることを恐れる必要はない。