座間コミニティー

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◆こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように

2011年08月23日 18時23分23秒 | 聖書
(エペソ三・一七)

信者として私たちに何よりも望ましいことは、イエスを常に私たちの前に置き、主に対する私たちの愛を燃やし、主に関する知識を増すことである。イエスを常に近くもつためには、心が主によって満たされ、主の愛をわき出させ、さらにあふれさせるのでなければならない。そのため使徒は、「キリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださる」ように祈った。使徒が、イエスを近くにもつことをどれほど願っていたかを見よ! ある主題を心の中にもつ以上に、近くにもつことはできない。「キリストが住んでいてくださる」ように祈り求めるのは、たまたま訪れた客が一泊するように、キリストに時々訪れていただくのを願うことではない。主が住んでくださること、イエスがあなたのたましいの奥深い所で主となられ、住人となって、決してそこから離れないことを願うのである。
次のみことばを心に留めよ。「キリストがあなたがたの心のうちに住んでいてくださる。」ここは人間の家の中の最上の部屋である。ただあなたの思いの中にというだけでなく、愛情の中にも、また、知性の黙想の中にというだけでなく、心の情緒の中にも、住んでくださるようにと願っている。
私たちは、キリストに対する永続的な愛をあえぎ求めるべきである。一時にぱっと燃え上がって、たちまちやみの中に消えるような愛ではなく、決して消えることのない祭壇の火のように聖なるたきぎを入れられて、不断に燃え続ける愛でなければならない。これは信仰によらなければ不可能である。信仰が強くならなければ、愛は熱くならない。
友よ。心からの信仰によって、しっかりとイエスをとらえるのでなければ、イエスはあなたの心の愛の中にお住みになることができない。常にキリストを愛することができるために、キリストに常に信頼することができるように祈れ。もし愛が冷ややかであれば、信仰が落ちこんでいるためであると知るべきである。


レター・泉教会0823

2011年08月23日 18時19分46秒 | 聖書
(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)
私は、牧師として病院に行く機会が多いのですが、ある時、こういうことがあり
した。
一人のご婦人が心臓を悪くされて、救急車で運ばれて入院されたのです。
ところが、この方の家は古い団地でした。団地というのは何かあるとすぐ人のうわさになりますが、まして救急車となれば、窓という窓から見下ろされるわけです。
このご婦人は、とにかくそれが嫌だった。
具合は悪かったのですが、ようやく近くにいる息子さんのアパートまでたどりつき、そこから電話して救急車を呼んだのです。
病院に着くと、ドクターは言いました「あなた、危篤ですよ」。何と、危篤であったにもかかわらず、このご婦人は、恥ずかしいとか、嫌だとか、そういうことを言っていたのです。いかがでしょうか。実は、これは私たちにも当てはまることだと思うのです。
私たちの感覚や、考えること、行動は、結構、当てにならないのではないかと思うのです。狭い知識や限られた経験の範囲で、いいとか悪いとか、言っている。
専門家からすれば危篤なのに、私たちの方では結構、流暢に時間をもてあそぶことがあるわけです。
聖書の人間の見方は、決して楽観的ではありません。
それは、私たちも薄々、気付いていることなのです。
不安な気持ちになることがあり、言い知れない恐れを感じることもあります。
その割に自己中心で、人をねたみ、嫉妬を持ち、敵意や怒りを抱きます。
危篤の兆候が明らかであるにもかかわらず、専門家のところに行きません。
主イエス・キリストはこう言っています「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」自分は丈夫だ、正しい、また先ほどのご婦人のように恥ずかしいとか見栄を張るのはもう止めて、適切な治療をして人間を回復してくれるキリストのもとに、一日も早くあなたの荷を降ろしていただきたいのです。

●深夜労働の最低賃金法の適用●

2011年08月23日 15時40分24秒 | 労働法
深夜労働については、昼間の労働時間より比較的高い賃金が設定されています。これは昼間と夜とで業務内容が異なる場合であればともかく、深夜労働の賃金の高い部分については、深夜労働に対する割増し部分と考えられます。こうした割増し部分を含めて最低賃金を上回っていたとしても、割増し部分を除いて最低賃金を上回っていなければなりません。

出エジプト記7章19節

2011年08月23日 06時25分39秒 | 聖書
7:19 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」 ここでは、主は、水を血に替えるという業を、モ-セだけではなくて、アロンにもさせようとされました。アロンも同じように神様がたたせて、エジプトの上に神の力を示し、パロが民をエジプトから出させるための働きをすべき人であったからです。彼は、口べたなモーセに代わって、パロに語りかけるという働きを託された人物です。しかし同時に、語るのみならず、神から与えられた力によって、神の業をすることも、彼に託されたのです。それは、水がエジプトにあって、川の上のみならず、あらゆる所の水が血に替わるようにしようとされたからでした。そのためには、モ-セ以外の人の手を必要としたからです。しかしそれのみではなく、主はこの事を行わせることによって、主が人の基本的に必要なことを支配したもう方であることを示されたのです。

◆よ く 聞 く 人

2011年08月23日 06時19分57秒 | 聖書
まやかしの証人は滅びる。
しかし、よく聞く者はいつまでも語る。(箴言二一28)

人の声にならないことばにまで耳を傾け、よく聞くということは、人間らしい生き方の根本的要素だと思います。しかしこの聞くということば(シャーマ)は、「神に聞く」という意味なのです。
何年か前、私が説教学という学科を教えていた神学校に、南アフリカからフレンドさんという老クリスチャンが来て、学生たちに話されたことがありました。「『神がお遣わしになった方は、神のことばを話される』と聖書にありますが、皆さんは、人間の知恵のことばや人間のアイデアや哲学ではなくて、神のことばを人々に語るべきです。」フレンドさんはそう話された後、話をやめました。しばらくして、「神のことばを語る人は、まず、神のことばを聞かなければなりません」と言われました。その時、私など口から先に生まれたほどではないにしても、語ることが多すぎる、「聞くことが少ない」と、深く心を探られました。この短いことばが、今も私の心に突き刺さっています。
学者であり宗教改革者であったマルティン・ルターは、毎朝三時間の祈りを通して、神に聞きました。忙しくなればなるほど、この時間が長くなったと聞きます。イギリスを堕落から救ったジョン・ウェスレーが祈った小部屋をロンドンで見ました。彼は窓の下にひざまずいて、朝二時間、夜二時間、神の前にとどまって、神に聞いたということです。
自分の知恵や哲学やアイデアを語った人々は消え去りましたが、神に聞き、そして人の魂を生かす神の慰めのことばを語った人々は、永遠に残るのです。聖書は、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(ヘブル一一4)と言います。
人の魂を、ほんとうに生かし励まし、いやし力づけ立たせ教え導くのは、神のことばです。よく聞く者になりたいと思います。


◆そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。

2011年08月23日 06時13分28秒 | 聖書
(イザヤ六五・一九)

栄化された者はもはや泣くことはない。すべての外面的な悲しみの原因は姿を隠す。天国にあっては、もはや友に裏切られることもなく、前途が失望に終わることもない。貧困も飢きんも危険も迫害も中傷も存在しない。また困難も死も別離の悲しみもない。
彼らはもはや泣かない。彼らは全く聖化されているからである。もはや「悪い不信仰な心」が、彼らを生ける神から引き離そうとすることもない。彼らは御座の前に何の欠点もなく、神の御姿に全く一致している。彼らは罪を犯すことをやめたのであるから、嘆くことがないのは当然のことである。
彼らはもはや泣かない。なぜなら、すべての変化の恐れが過ぎ去ったからである。彼らは永遠に安全であることを知っている。罪は閉め出され、彼らは内に閉じ込められた。彼らは決して襲撃されることのない都の中に住み、沈むことのない太陽の光に浴し、決して乾くことのない川の水を飲み、枯れることのない木から果実をもぎ取る。数え尽くすことのできない歳月が過ぎ去るであろう。しかし、永遠は尽きることがない。そして永遠が続く限り、不死と祝福が伴う。彼らは永遠に主と共にある。
彼らはもはや泣かない。すべての望みが満たされているからである。彼らは何も欲しない。目と耳、心と手、思慮分別、想像、希望、欲望、意志、すべての能力は完全に満たされている。神がご自身を愛する者のために備えられるものに対する私たちの現在の考えは、まことに不完全である。しかし私たちは聖霊の啓示により、天上の聖徒たちが無上の祝福を受けていることを十分に知っている。歓喜を無限に満たすキリストの喜びが、彼らの中にある。彼らは果てしない至福の海で水浴をする。この喜ばしい休息は、私たちのためにも残されている。決して遠いことではないだろう。すすり泣く柳は、やがて勝利のしゅろの木の枝に変わり、悲しみの富は、永遠の祝福の真珠となるであろう。
「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」