労基法41条では、法定労働時間を超える労働に対しても割増賃金の支払義務が無い労働者を規定しています。いわゆる管理監督者と、監視・断続的業務、などが上げられていますが、監視・断続的業務への従事労働者について割増賃金の支払が免除されるためには許可が必要ですが、管理監督者には許可が必要ありません。
例えば、就業時間外に準備作業が義務付けられていたり、明確に指示されていなくてもそうした作業が義務付けられている場合には、労基法上の労働時間とされ、割増賃金の支払義務は免れません。ここで注意しなければならないのは、支払義務が免れないのは「割増賃金」であって、労働に対する賃金は契約によるということです。
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」 モーセは、自分が神から遣わされるということは知りました。しかし、自分がこのイスラエルの民のところに行った時に、彼らが自分を遣わした方は誰であるのかと問われたら、なんと答えるべきかと思いました。イスラエルの民が、神様の事を知らないわけではありません。しかし、自分がその方とどんな関係を持っているのか、またそれをどのように語ったらよいのか、わからなかったのです。その時、神は、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」その方から自分が使わされたと伝えよと、言われました。「わたしはある。」とは、何者にも依存していないで存在する方、という意味です。人は、何かしらに依存して生きています。しかし神は、その命においても、存在においても、何者にも依存しないお方であり、ご自分の内にすべてのものを持っておられる方である事を示されたのです。新たな、認識でした。
人の心にあるはかりごとは深い水、
英知のある人はこれを汲み出す。 (箴言二〇5)
「大賢は愚なるがごとし」とよくいいます。表面はのろまでばかのように見えても、実は心の底に、深い愛や知恵をたたえている人です。私たちにほんとうに必要な愛や知恵や力というものは、まるで地下水のようなもので、表面にはなかなか出てこないのです。
旧約聖書の中に出てくるイサクという人物は、井戸掘りの名人でした。砂漠や岩だらけの荒れ地で、井戸がどんなに大切だったか分かりません。イサクが井戸を掘り当てると、敵がやっかんでそれを奪い去るか、うめたりしました。しかしイサクは、少しも敵と争わないで、次から次へと砂漠に井戸を掘り当てていったのです。あなたには神がついているといって、敵の王も、最後には講和を申しこんできたほどでした。
深いところから深い水をくみあげる、英知のある人になりたいものです。人を表面だけで判断し、人をばかにする人は、人の心の中から深い水をくみあげられません。自分の心に、深い水が必要とは思わない、自己充足している人やごうまんな人も同じです。人に対して深い尊敬と愛情を持ち、心に飢え渇きを持つ人が、人の心の中から深い水をくみあげることができます。砂漠も深く掘れば、水がわき出るのです。
しかし、多くの人は神の存在も認めず、あるいは、自分に関係のないところで神を祭りあげています。生けるいのちの神、造り主であり全知全能である神を知り、恐れ、礼拝し、この神の前に飢え渇いて、聖書を深く深く掘りさげる人は、その中からわきあがるいのちの水をくみあげることができるのです。
イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七37―38)。
英知のある人はこれを汲み出す。 (箴言二〇5)
「大賢は愚なるがごとし」とよくいいます。表面はのろまでばかのように見えても、実は心の底に、深い愛や知恵をたたえている人です。私たちにほんとうに必要な愛や知恵や力というものは、まるで地下水のようなもので、表面にはなかなか出てこないのです。
旧約聖書の中に出てくるイサクという人物は、井戸掘りの名人でした。砂漠や岩だらけの荒れ地で、井戸がどんなに大切だったか分かりません。イサクが井戸を掘り当てると、敵がやっかんでそれを奪い去るか、うめたりしました。しかしイサクは、少しも敵と争わないで、次から次へと砂漠に井戸を掘り当てていったのです。あなたには神がついているといって、敵の王も、最後には講和を申しこんできたほどでした。
深いところから深い水をくみあげる、英知のある人になりたいものです。人を表面だけで判断し、人をばかにする人は、人の心の中から深い水をくみあげられません。自分の心に、深い水が必要とは思わない、自己充足している人やごうまんな人も同じです。人に対して深い尊敬と愛情を持ち、心に飢え渇きを持つ人が、人の心の中から深い水をくみあげることができます。砂漠も深く掘れば、水がわき出るのです。
しかし、多くの人は神の存在も認めず、あるいは、自分に関係のないところで神を祭りあげています。生けるいのちの神、造り主であり全知全能である神を知り、恐れ、礼拝し、この神の前に飢え渇いて、聖書を深く深く掘りさげる人は、その中からわきあがるいのちの水をくみあげることができるのです。
イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七37―38)。
神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ八・二八)
信者は、ある一点について絶対的な確信をもつ。たとえば舟が最も激しく揺れる時、舟のともには神が座しておられることを知っている。見えない手が常に世界の舵をとっており、摂理の潮がどこに流れようと、神が支配されることを知っている。心を奮い立たせるこの知識は、彼をすべてのことに対して備えさせる。
彼は荒れ狂う怒濤を見渡し、イエスが大波の上を歩いて近づき、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われる声を聞く。また神が常に賢明な方であることを知っているので、事故や失敗などありえないことを確信する。彼はこう言う。「たとえ私の持っているものをすべて失っても、それがみこころならば、むしろ失ったほうがいい。もし神の定められたことならば、最悪の災いであっても、それは私にとって最も賢明な、また最も親切な賜物である。」「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と。
クリスチャンはこれを理論として把握しているだけではなく、これが事実であると知っている。今まですべてのことは働いて益となってきた。すべてのことが、すばらしい祝福された結果をもたらしてきた。だから、神がすべてを支配し、災いの中からよいものを与えてくださることを信じるので、心が確信に満たされ、あらゆる試練にも冷静に直面できる。信者はすべてをゆだねてこう祈る。「私の神様。あなたのよいとご覧になるものを送ってください。あなたの子どもに害になるものを、あなたは決して与えられませんから」と。
私のたましいよ。「神はいつ私の思い煩いを取り除かれるのか」と言ってはならない。全能なる神は至る所にしもべをもっておられる。神の方法は崇高で、そのみこころはいつくしみ深い。神は決して定められた時に先立たれることもなく、また遅れることもなさらない。
信者は、ある一点について絶対的な確信をもつ。たとえば舟が最も激しく揺れる時、舟のともには神が座しておられることを知っている。見えない手が常に世界の舵をとっており、摂理の潮がどこに流れようと、神が支配されることを知っている。心を奮い立たせるこの知識は、彼をすべてのことに対して備えさせる。
彼は荒れ狂う怒濤を見渡し、イエスが大波の上を歩いて近づき、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われる声を聞く。また神が常に賢明な方であることを知っているので、事故や失敗などありえないことを確信する。彼はこう言う。「たとえ私の持っているものをすべて失っても、それがみこころならば、むしろ失ったほうがいい。もし神の定められたことならば、最悪の災いであっても、それは私にとって最も賢明な、また最も親切な賜物である。」「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と。
クリスチャンはこれを理論として把握しているだけではなく、これが事実であると知っている。今まですべてのことは働いて益となってきた。すべてのことが、すばらしい祝福された結果をもたらしてきた。だから、神がすべてを支配し、災いの中からよいものを与えてくださることを信じるので、心が確信に満たされ、あらゆる試練にも冷静に直面できる。信者はすべてをゆだねてこう祈る。「私の神様。あなたのよいとご覧になるものを送ってください。あなたの子どもに害になるものを、あなたは決して与えられませんから」と。
私のたましいよ。「神はいつ私の思い煩いを取り除かれるのか」と言ってはならない。全能なる神は至る所にしもべをもっておられる。神の方法は崇高で、そのみこころはいつくしみ深い。神は決して定められた時に先立たれることもなく、また遅れることもなさらない。