座間コミニティー

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◆わたしは……あなたがたに肉の心を与える。

2011年08月15日 20時06分56秒 | 聖書
(エゼキエル三六・二六)

肉の心の特徴は、罪に関して敏感なことである。汚れた想像にふけり、しばらくの間でも情欲をほしいままにすることは、肉の心を主の御前に悲しませるのに十分である。石の心は大きな罪に対して何とも思わない。しかし、肉の心はそうではない。
 主よ。私が迷ったら
 その瞬間にお叱りください
 あなたの愛を悲しませたことのゆえに
 私に涙を流させてください
肉の心は、神のみこころに対して柔らかである。私の主人である自我は非常な暴君で、神のみこころに従わせるのはたいへん難しい。しかし、肉の心が与えられるならば、私たちの意志はポプラの葉のように、天から風が吹くたびに震え、聖霊のそよ風が吹くたびに、柳のように頭を下げる。生来の心は鉄のように冷たく、ハンマーによっても形を変えることはできない。しかし、新たにされた心は、溶けた金属のように、恵みの手によってただちに自由な形となる。
肉の心には、愛情に満ちた優しさがある。かたくなな心は贖い主を愛さない。しかし新たにされた心は、主への愛に燃える。かたくなな心は利己的であり、冷たくこのように言う。「なぜ私は罪のために泣かなければならないのか。なぜ主を愛さなければならないのか。」しかし、肉の心は言う。「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。あなたをさらに愛することができるように、私を助けてください」と。
この新たにされた心がもつ特権は多い。「ここに聖霊が住まわれる。ここにイエスが憩われる。」新たにされた心は、あらゆる霊的祝福を受けるのに適し、あらゆる祝福がそこに注がれる。新しくされた心には、神があがめられ、賛美されるためにあらゆる天の果実をささげるような備えができている。それゆえ、主はそれを喜ばれる。柔軟な心は罪に対する最善の防御であり、天国への最善の準備である。新しくされた心は見張り所の上に立って、主イエスのおいでになるのを待ち望む。あなたはこの肉の心をもっているか。


終戦66年震災・原発事故のさなかに

2011年08月15日 15時51分31秒 | 平和・基地

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 いまから66年前の1945年8月15日も暑い夏の日でした。31年9月の「満州事変」以来、日中戦争、アジア・太平洋戦争と15年間にわたる戦争で、2000万人を超すアジア諸国民と310万人以上の日本国民を犠牲にした戦争に日本が敗れ、降伏を認めた日です。

 終戦66年のことしの「8・15」は、戦後最大の東日本大震災と、いまだ収束のめどが立たない東京電力福島原発事故の中で迎えることになりました。戦争の惨禍に思いをはせ、平和への決意を新たにするとともに、あらためて日本のあり方を見つめなおす機会です。

政治が根本から問われる
 66年前の日本の敗戦は、「勝ち戦」を信じ込まされ、戦争に駆り出されていた多くの国民にとって大きな衝撃でした。敗戦によって初めて空襲など「被害」の体験とともに、大義のない侵略と領土拡大でアジア諸国民に被害を与えた「加害」の責任に向き合うことになった国民も少なくありません。

 ことしは、中国への侵略を本格化させた「満州事変」から80年、アジア・太平洋戦争に突入した41年12月8日の開戦から70年の節目でもあります。マスメディアなどでいまだに「日本はなぜ戦争へと向かったのか」と問い返され続けていること自体、戦争がもたらした傷跡の大きさを示すものです。

 戦後つくられた憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と明記しました。敗戦はそれまでの日本のあり方、政治のあり方を根本的に問い直すものとなったのです。絶対主義的な天皇制は国民主権の政治制度に変わり、侵略戦争を推進した旧軍隊は解散させられました。同時に日本を事実上単独占領した米軍のもとで再軍備が進められ、日米軍事同盟が結ばれていくことになります。

 財閥は解体されましたが、アメリカと結びついた財界・大企業は戦後も復活・強化を続けます。今日深刻な事態をもたらしている原発事故も、核戦略と一体になったアメリカの政策と、日本の政府・電力会社などによる「原発利益共同体」がもたらしたものです。

 戦後66年、未曽有の災害となった東日本大震災と東電原発事故は、戦後の日本のあり方を、あらためて根本から問うものとなっています。「原発震災」を警告してきた地震学者の石橋克彦氏は、戦前の旧軍隊になぞらえて国策として進められた原発建設を批判します。

 旧軍隊が「大本営発表」で国民の批判を抑え込んだように、原発でも「安全神話」をふりまきマスメディアを総動員して批判を封じてきました。原発事故で「安全神話」が根底から崩壊したいま、原発からの撤退を求める声がほうはいとわきあがるのは当然です。

反対つらぬいた党の存在
 「ひとり共産党は終始一貫戦争に反対してきた。従って共産党は他党にない道徳的権威を持っていた」―。かつて自民党の党内研修用の教科書が書いた言葉です。

 規模こそ違え、今日もまたかつてない原発事故のなかで、原発推進に反対をつらぬいてきた日本共産党の主張が見直されています。

 2年前の政権交代をピークにした「二大政党」制は、行き詰まり破綻しました。新しい政治を探求するうえでも、戦争にも原発にも反対した党があったと、国民に知ってもらうことが大切です。



出エジプト記5章10-23節

2011年08月15日 05時36分37秒 | 聖書
5:21 彼らはふたりに言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」 モーセとアロンが、王に、イスラエルの民をエジプトから三日の行程で出て、主なる神を礼拝させよと求めた時に、事態が変わりました。王は、イスラエルの民の意図と行動を懸念して、煉瓦作りに使うわらを、自分たちで調達するように命じたのです。しかも、作るところの煉瓦の数は、減らしてはならないというのです。このことを聞いた民は、王の所に行って、とても出来ないと告げました。しかし、王は譲りませんでした。そこで彼等は、この事態をもたらしたモーセとアロンの所に行って、彼等に文句を言いました。何故、自分たちをこのようなひどい目に遭わせるのか、と。モーセとアロンは、イスラエルの民に、真の意味での救いをもたらすために働きました。しかし、そのことが理解されませんと、反対に、非難にあってしまうことがあるのです。主の御心を、しっかりと覚えることは、大事な事です。

◆御霊の初穂をいただいている私たち自身も……。

2011年08月15日 05時30分59秒 | 聖書
(ローマ八・二三)

ここには、今いただいているものが宣言されている。現在私たちは、聖霊の初穂をもつ。私たちは、悔い改めという最も上質の宝石、信仰という無限の価値をもつ真珠、希望という重厚なエメラルド、愛という輝かしいルビーをもつ。私たちは聖霊なる神の有効な働きによって、すでに、「キリストのうちにあって、新しく造られた者」とされている。
これは最初にあることであるため、「初穂」と呼ばれる。揺れる一束が収穫の初めであるように、霊的生活とそれを飾るすべての恵みは、私たちのたましいの中における神の御霊の最初の働きである。
初穂は収穫の保証であった。イスラエル人は、熟した最初の一握りを刈り取るやいなや、喜びに胸を躍らせて、荷車もきしむような大収穫を待ち望んだ。そのように兄弟たちよ。神が聖霊の働きとして、清いこと、愛すべきこと、評判のよいことを与えられる時、それは私たちにとって来るべき栄光のきざしである。
初穂は常に主にとって聖いものであった。私たちの新しい性質、新しいすべての力は聖別されたものである。新しいいのちは、そのすぐれたことを私たちの功績に帰すために、私たちのものとされたのではない。キリストの御姿であり、キリストによって新しく造られたもの、その栄光のために定められたものである。
しかし、初穂は収穫ではなかった。そして、私たちのうちにおける現在の御霊の働きは、完成されたものではない。これからなのである。自分がこれまでに達成したものを誇り、初穂をその年の収穫のすべてであると考えてはならない。私たちは義に飢え渇き、全き贖いの日をあえぎ求めなければならない。
愛する友よ。今夜あなたの口を大きくあけよ。神は、それを満たしてくださる。現在あなたがもっている賜物によって、あなたのうちにさらに恵みを求める聖く熱心な願いを起こせ。より高い献身をうめき求めよ。主はあなたの求めを聞かれるであろう。なぜなら主は、あなたが求めること、いや考えることにさえ、はるかにまさることをなすことができる方だからである。


◆ほんとうの商売

2011年08月15日 05時26分55秒 | 聖書
偽りの舌をもって財宝を得る者は、
吹き払われる息のようで、
死を求める者だ。         (箴言二一6)

ごまかしてもうけた金や、ほとんど詐欺行為で築きあげた財産は、「悪銭身につかず」で、けっしてよい結果は生み出さないということです。そういう例は、たくさんあります。
それなのに、「うそも方便」「紺屋のあさって」で、少しぐらいうそをついてもセールス・トークで押しまくり、人を押しのけても金もうけをするというやり方が、多くの人に当然のことと受けとられています。そして、「クリスチャンになって、うそが言えなくなったら、飯の食いあげだよ」とキリスト教を毛ぎらいしたり、敬遠したりする人が多くいます。
しかし、企業家の中で、じわじわと注目され考え直されていることがあります。もうけ主義一点張りだと、いつか共倒れになる。商売・事業というものは、自分だけ金がもうかればいいというのではない。よい品を適正な価格で仲介して、人々の必要と健全で安定した生活のために奉仕するのだ。その報酬として、自分たちも平安で静かな一生を送ろう。――私は、全国の書店の大会に招かれて、このポイントで聖書から話してほしいとたのまれたことがありました。
かつてロックフェラーは、身をやつして金もうけをし、大金持ちになったとたんに、夜も眠れないノイローゼにかかってしまいました。ミルクにクラッカーしかのどを通らず、どうしても治りません。しかし、この苦しみを通してロックフェラーは、人々に仕え神に仕える事業家のあり方を学んで、生まれ変わりました。その結果、ロックフェラー財団が生まれたのです。また、救世軍を通して救われてクリスチャンになった魚屋の若い者が「私はもう鯛のほおに紅を塗るのをやめました」と言ったそうです。それからその青年は事業がうまくいかずに困ったでしょうか。正反対だったのです。


◆イサクは夕暮れ近く、黙想するため野に出かけた。

2011年08月15日 05時22分55秒 | 聖書
(創世二四・六三英訳)

イサクの行為は、まことに賞賛すべきものであった。もし怠惰な友と交わり、つまらないものを読みふけり、無益なことに多くの時を費やす人が、知恵を得るならば、今夢中になっている空しいものよりも、黙想するほうがはるかに有益であり、興味深いことであるのを見いだすであろう。もし私たちがさらに孤独になるならば、従来よりもさらによく神を知り、さらに神に近く生活し、恵みに成長するであろう。黙想は他の場所において集められた心の糧を反芻し、その中から真の栄養を引き出す。イエスが黙想の主題となる時、その黙想は実に甘美なものである。イサクはただひとり黙想している時に、リベカを見いだした。他の多くの者も、黙想の時に最愛の者を見いだしている。
イサクの選んだ場所も、強く賞賛されるべきである。野にあって、私たちは聖句を思い巡らす。杉の木とヒソプ、天を飛び駆けるわしと草原に鳴く虫、そして広大な青空から一滴の露に至るまで、すべてのものは教訓に満ちている。目が神によって開かれているならば、その教訓は書物を読むよりも、はるかに生き生きと私たちの心にひらめくのである。小さい私の部屋は、野原のように健全ではなく、暗示的でもなく、居心地もよくなく、私たちを力づけることもない。私たちは何ものをも平凡だとか汚れているとか考えないようにしよう。すべての被造物がその創造主を指し示していることを感じ取ろうではないか。そうすれば、野原はただちに聖別されるであろう。
イサクの黙想の時期も、まことによかった。日没となり、あたりが夕やみに包まれるころはたましいの休息に最適だ。世の憂いを捨て、天上の交わりの喜びに入る。夕日の輝きは私たちに驚異の念を起こさせ、近づく夜の荘厳さは、畏怖の心を目覚めさせる。
愛する友よ。もし今日の仕事が許すならば、一時間を割いて、夕暮れの野原を散歩するとよい。しかしそれができなくても、主は町の中にもおられる。またあなたの部屋で、あるいは街の雑踏の中であなたに会われる。あなたの心を進み出させ、主にお会いせよ。