座間コミニティー

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◆わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。

2011年08月04日 18時09分44秒 | 労働法
(ハガイ二・一七)

雹は、農作物にひどい害をもたらす。それは、貴重な穀物を地面にたたきつける。そのひどい被害から農作物が守られた時、私たちはどれほど感謝すべきであろう。私たちは主に感謝をささげよう。
しかし、さらに恐るべきものは不思議な破壊者――立ち枯れと黒穂病――である。これらは穂をだいなしにするものであり、人の力ではどうすることもできないので、農夫たちは「これは神の指です」と叫ぶよりほかにない。
数えきれないほど多くの微小な病菌が災害をもたらしており、もし神の恵みがなければ、飢きんはまたたく間に国中に広がったことであろう。無限のあわれみが人の食物を守る。しかし、収穫をだめにしようとする多くの災害があるので、私たちは「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るように教えられている。災害はあまねく広がっている。私たちは絶えず祝福を必要とする。害虫やかびは天の懲らしめである。人々はそのむちを耐え忍び、それを遣わされた方のみこころを学ぶべきである。
霊的に見るならば、かびは珍しいものではない。私たちの活動が最も有望な時に、これが現れる。私たちは多くの人々が回心することを望む。しかし、見よ。人々は冷淡であり、世的であり、また恐ろしいまでに心がかたくなである! 私たちが導こうとする人々の中には、公然たる罪はないかもしれない。しかし、誠実さと決断力に欠け、私たちの願いを非常な失望に至らせる。このことから、私たちは主により頼むべきこと、私たちの働きが挫折しないように祈るべきことを痛感する。霊的高慢や怠惰はすぐに私たちの上に恐るべき害悪をもたらす。しかも、ただ収穫の主のみ、それを取り去ることがおできになる。かびは、私たち自身の心さえも攻撃する。そして私たちの祈りや礼拝をしぼませる。
どうか、偉大な農夫がこの恐ろしい災害を取り除き、義の太陽を輝かせてくださいますように。


◆冬  に  耕  す

2011年08月04日 06時54分42秒 | 聖書
なまけ者は冬には耕さない。
それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。(箴言二〇4)

「冬には耕さない。」――辛らつなことばだと思います。私は、福島県の山中の農村で二年間暮らしました。多くの農家の方やいろいろな方とも友人になりました。その中で、種もまかずに取り入れをしようとしている人は一人もいませんでした。それなのに、この人生には、冬に耕さず、春に種をまかず、夏に草取りをせずにいて、人生の収穫を期待し、収穫がないとつぶやいている人が何と多いことでしょう。
パウロは、「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント九6)と言いました。冬に耕しても、春に種をまいても、刈り入れがない凶作の時も、人生にはあります。悲しい人生の現実です。しかし、耕さずまかず草取りもしない時、収穫があるはずはありません。
種をまき、水を注ぎ、草を抜くのは、人のわざです。時には、苦しい労働です。しかし、苗を生長させるのは神です。徹底的に、神に任せ、神によりたのみ、神に従い、永遠をめざして神と共に働く。――これが、人生の根本の姿ではないでしょうか。
育つのには、時がかかり、忍耐がいります。しかし、やがて必ず神がなしてくださるという信仰に生きたパウロは、こう言いました。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント四17―18)。
目に見える今のことだけに対応していくと、人生のなまけ者になってしまいます。


◆自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。

2011年08月04日 06時50分53秒 | 聖書
(ダニエル一一・三二)

すべての信者は、神を知る知識が最高にして最善の知識であり、この霊的な知識がクリスチャンの力の源泉であることを理解している。
これが彼の信仰を力づける。信者は聖書の中で、主によって照らされ教えられた者として絶えず述べられている。彼らには「聖なる方からの注ぎの油がある」と言われている。そして彼らを真理に導き、またそれによって彼らの信仰を強め、育てることは、聖霊の特別な務めである。
知識は信仰を強めると同様に、愛をも強くする。知識が戸を開くので、そこを通して私たちは救い主を見る。別の言い方をすれば、知識がイエスの肖像を描き、その肖象画を見て、私たちはイエスを愛する。私たちが全くイエスを知らないならば、キリストを愛することはできない。私たちがイエスのすばらしさについてほとんど知らず、主が私たちのためになされたこと、現在なしておられることについての知識がほとんどないとすれば、とうてい主を多く愛することはできない。イエスを知ることがいよいよ深ければ、さらに私たちは深くイエスを愛するのである。
知識はまた希望に力を与える。もしその存在を知らなければ、どうしてそれを望むことができようか。希望は望遠鏡であると言えよう。しかし、私たちがその使用法を教えられるまでは、無知のゆえに何も見ることができない。知識は障害物を除き、私たちは初めて栄光に接し、かつ喜ばしい確信をもってそれを期待することができるようになる。
知識は忍耐すべき理由を与える。私たちがキリストのあわれみを知らず、天の父が私たちに与える懲らしめのもたらすよい結果を知らなければ、どうして忍耐することができよう。
あらゆる恵みは神のもとで、聖なる知識によってクリスチャンを養い、完成に至らせる。それならば、私たちが恵みにおいてだけでなく、主であり救い主であるイエス・キリストの「知識」においても成長することは、どれほど大切であろうか。


出エジプト記3章7-12節

2011年08月04日 06時46分20秒 | 聖書
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしでわたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」 モーセは神に選ばれて、神の働き人としてエジプトに遣わされることとなりました。しかし、彼とて、単に人に過ぎない者です。ましてや、あのエジプトから逃げてきた者です。当時の、彼の命を狙っていた王は死んだとしても、彼のうちに恐れがないということではありません。しかし神は、こうした神から遣わされる彼に対して、「わたしがあなたとともにいる。」と語られました。全知全能の神が、彼と一緒にいてくださるのです。これほど力強いことはありません。そのことをしっかりと認識して、そこに立つ人は力を与えられるのです。 彼に語られたことには、もう1つのことがありました。それは、導き出されたイスラエルの民が、このホレブの山で、神に仕えさせなさいということでした。ここで彼らは、神の律法を与えられて、新しく神の民として生きる、その決意の現れの契約をすることでした。