座間コミニティー

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◆わたしは……わたしの契約を思い出す……。

2011年08月13日 20時00分37秒 | 福祉
(創世九・一五)

約束の型に注意せよ。神は「あなたが虹を見て、わたしの契約を記憶しているならば、わたしは地を滅ぼさない」とは言われなかった。契約は、私たちの気まぐれな弱い記憶には基づかず、無限にして不変な神の記憶に基づいている。「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て……永遠の契約を思い出そう。」おお、私の安全の基礎は、私が神を思い起こすことにはなく、神が私を思い起こされるところにある。私が神の契約をとらえるのではなく、神の契約が私をとらえる。
救いのとりでの全体は、神の力によって守られている。とりでの中の小さな塔すら、全能の御力によって守られている。契約を覚えることすら、私たちの記憶に任せられていない。私たちは忘れるかもしれないからである。しかし、私たちの主は、ご自分の手のひらに刻まれた聖徒たちを決してお忘れにならない。
私たちは、エジプトにおけるイスラエル人のようである。家の入口の二つの門柱とかもいに血が塗られていた。しかし主は「あなたがたが血を見る時、わたしはあなたがたの所を通り越そう」と言われたのではない。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」と言われたのである。私が主を仰ぎ見れば、喜びと平安が与えられる。しかし、私の救いと、すべての選ばれた者の救いが確かなのは、神がイエスを見られることによる。私たちの神は、血を流された私たちの保証人であるキリストを見、すでに主にあって処罰されている罪のゆえに、なお私たちに怒りを発することはおできにならないからだ。
救いは、私たちが契約を思い起こすことによるのではない。それは、人から来たものではなく、人によるのでもない。ただ、主のみによる。私たちは契約を覚えるべきであり、神の恵みによってそうしようとする。しかし私たちの安全のかなめはそこにはない。すなわち神が私たちを記憶してくださることにあるのであって、私たちが神を記憶することにあるのではない。それゆえに、その契約は永遠の契約なのである。


出エジプト記4章27-31節

2011年08月13日 08時52分13秒 | 聖書
4:30 アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なったので、4:31 民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。 主は、モーセの兄弟アロンをモーセに会わせ、彼がモーセの口となって、モーセと共に働きをするように立たされました。そこで、アロンはモーセに会い、彼と共に、エジプトに行きました。そこで民の長老たちを集めて、主がモーセに語られたことを告げました。長老たちは、そのアロンの語ることを聞いて、大変喜びました。そして、民の前で行われた印を見て、その約束と彼らのことを信じ受け入れました。その結果、民は、神様が自分たちのことを顧み、また自分たちの苦しみをご覧くださったことを感謝して、主を礼拝する喜びに満たされました。主が、民の苦しみを見て、顧みてくだされば、そこには真の希望が湧いてきます。また、具体的に指導者を起こしてくださったのであれば、なおさら、その恵みの確認を見るのです。いよいよ、主が働いてくださるのです。

◆人の心の値打ち

2011年08月13日 08時42分04秒 | 聖書
人は自分の道はみな正しいと思う。
しかし主は人の心の値うちをはかられる。(箴言二一2)

「人は自分の道は正しいと思う。」それには人によって個人差がありましょう。でも、ほんとうにそうだと思います。今の場合、自分の意見とやり方は正しい、するべきことはこれだけだと思い、人に聞こうとしないで押し通そうとすることがよくあります。
私たちの意見・アイデア・やり方・方策。――これも大切です。しかし、そんなものを生かすといいますか、そんなものに力と永遠の価値を与えるものは、人の心の動機なのです。人はうわべを見て判断しますが、神は、心・その中味・動機を見て測られます。
イエス・キリストの愛によって、寂しい劣等感が吹き飛ばされ、人生のどうにもならない挫折感から立ち直ったマリヤは、新しい人となりました。そして、感謝と敬愛の念にかられてマリヤは、ナルドの香油のつぼを割って、時価二百万円もする油全部をイエス・キリストにふりかけました。すると、同席していたイスカリオテ・ユダが言うのです。「ばかなことをする女だ。この香油を売って貧しい人に施しをしたら、何十人、何百人が助けられるのに。」しかし、イエス・キリストは言われました。「どうして女を責めるのですか。この人は、私に美しいことをしてくれました。精いっぱい、できるかぎりのことを、私の葬りの準備をしてくれたのです。」イエス・キリストは、ちゃんと女の心とユダの心の値打ちを測られ、知っておられたのです(ヨハネ一二3―8参照)。
ユダはイエスのそばに三年半いても、イエス・キリストを心の中に迎えていませんでした。いいアイデアや意見はありましたが、最後はアケルダマの畑で首をつって滅びました。一方、イエスに心を変えていただいたマリヤは、現在に至るまで、私たち一人一人の心に語っているではありませんか。


◆主の植えたレバノンの杉の木……。

2011年08月13日 08時20分24秒 | 聖書
(詩篇一〇四・一六)

レバノンの杉の木は、主によって植えられたという点においてクリスチャンを象徴する。これはすべての神の子どもにとって真実である。彼らは人によって植えられず、自ら生えず、ただ神によって植えられたのである。ご自身で準備された心の畑に、聖霊が見えない手をもって生きた種を蒔かれた。天国の真の相続者はすべて、偉大な農夫である神によって植えられたのである。
さらにレバノンの杉の木は、人の手によって水を注がれなくてもよい。それらは高い岩の上に立ち、人の手で灌漑されることはない。私たちの天の父がそれを潤してくださるのである。信仰によって生きることを知ったクリスチャンも同様である。彼はこの世のことについても人に頼らない。彼は生きるための養いを主なる神に、ただ神のみに求めるのである。天の露は彼の糧であり、天の神は彼の泉である。
またレバノンの杉の木は、人の力によって保護されない。それらがあらしから守られるのは、人の力によるのではない。それらは神の木であり、神によって守られる。しかり。ただ神によってのみ守られている。クリスチャンも全く同様である。彼は誘惑から隠されている温室の草木ではない。彼は風雪にさらされている。彼には、永遠の神がご自身の植えられた杉の木をその大きな御翼によって常におおわれる以外に、何の避け所も保護もない。杉の木のように、信者は活力に満ち、厳冬の雪の中でも縁のままであるだけの生命力をもつ。
最後に、杉の木の繁茂している堂々たる威容は、神のみを賛美するためにある。杉の木にとっては、主のみがすべてである。そのためにダビデは詩篇の一つで、「主をほめたたえよ。……実のなる木よ。すべての杉よ」と歌った。クリスチャンの中には、人をほめたたえるものは何もない。彼は主ご自身の御手によって植えられ、育てられ、かつ保護された。それゆえ、すべての栄光を主にお返しするのである。