トシコロのありのままの暮らし


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教育と20世紀の日本

2016-09-20 11:52:26 | 日記
  まず、大学でいきなり論文を書き始めて、4年間で論文式思考ができるようになるだろうか。非常に頭が良い人でもムリだろう。それまでの○×式や断片知識の習慣は抜けきらないものだ。国を動かしている高官や、戦前の高級軍人たちも。それを下敷きに20世紀の日本の3つの出来事を見ていきたい。


  戦後の2つの福祉関係の出来事から話そう。1990年代に起きた薬害エイズと、1953年に成立したらい予防法を見ると、どちらも厚生省の高官が隠ぺいや、法案作成した点が共通している。その高官たちは東京大学を出た人たちだった。でも、らい予防法にしても、本当は特効薬のプロミンで治っているのに、それを隠ぺいし、勝手に「世間に白い目で見られてかわいそうだから」と思いこみ、元患者の一人一人の生き方を考えずに、それまでの隔離政策を継続させた。隠ぺいはどんなに隠しても情報が漏れる事や、元患者相手に勝手な思い込みで隔離法案を作る事のおかしさが何故判らなかったのか。論文思考で多角的に物事を見られる人たちならば、恐らくはしない事である。思慮の浅さが見られるわけで、○×式思考に思われてならない。

  戦前である。1932年に満州国が当時の日本の陸軍の力によって作られた。東アジアとアメリカの歴史の分岐点になった事件だが、日本陸軍は大不況の解決策として、日本人を植民させようとしたわけである。陸軍高官も当時の帝国大学を出た人たちばかりだった。知能指数は非常に高かったと言われている。しかし、その政策は明らかに短絡的であった。まず、そこは当時も人口の多い所だった。そこに住んでいる多くの民はどうなるのか、を考えなかった。住まいを追い出されれば、武器を取って戦うことくらい、判りそうなものなのに。又、そこは中華民族の辺境みたいな所で、大昔から戦争が多かった。当時も北にはソ連が控えていた。植民すると、戦火が起きることも歴史を見れば、ちゃんと判るのに。それに当時はインドで独立運動が起きるなど、植民地の時代は終わっていた。これも歴史をまともに見れば判るのに。当時の陸軍高官も○×式思考しか出来なかったと言わざるを得ない。

  小学生に論文教育ができるかについては僕は判らない。それは教育に詳しい人たちに任せたい。でも、中学以降ならば、機会さえ与えれば、可能だと思う。また、そうすれば、大学に入らなくても、論文式思考が身に付き、ほとんどの国民が多角的な発想を持ち、以上の三例みたいな誤りもしなくて済むようになるはずだ。政治家の質も良くなり、政治家間の悪口なども言わなくなると。政治も良くなり、満州建国みたいな「国策の誤り」もなくなる。終戦直後、教育から軍国主義色は抜いたが、それだけでは不十分だった。元々は日本の教育現場に軍国色はなかったのだから。軍国主義は論文式教育の欠落の結果の面もあるのだから。伝統的に論文に力を入れているフランスの例もあるし。何故、フランスを見習わないのだろうと思う。終戦直後の教育改革で、論文教育を取り入れていたら、戦後の日本の姿も大きく変わったと思う。

  その教育は政治とも絡み合っている。特に、国会はその国の教育程度を反映するものと言って良い。又、一方では、国会は教育にも強い影響力を持つ。ならば、福祉や経済、外交も大事かも知れないが、それ以上に教育に熱心な政治家を生み出さないといけない。熱心であるというより、「論文式教育」を述べる国会議員を。いくら熱心でも、例えば、戦前教育に回帰みたいな事を述べるのは時代錯誤であり、おかしいわけだから。同様に、○×式教育を強化するような事もおかしいと思われるし。でも、悲しい事に教育は選挙の争点にはなっていない。僕も今までは教育で投票は選ばなかったが、今後は改めたい。教育も投票基準にしていきたい。

  子供を持つ人も、持たない人も教育には関心を持つべきではないだろうか。

論文は書けるようになるには年月を要します

2016-09-19 15:51:46 | 日記
  先のブログで「S園の事から僕は論文が書けるようになった」と書きましたが、本当に文らしいものが書けるようになったのは1990年の福祉キャンプの子供向け宇宙の文の時です。この間、13年ありました。S園に行った77年の時点でいきなりまともな文が書けるようになったわけではありません。


  誰でもそうだと思います。時間が非常に掛かるわけです。それ故に少なくとも、中学の時から少しずつ書く訓練をした方が良いかもしませんね。例えば、社会見学して、感想文ではなく、内容を数行で良いから書かせるとか。テレビで見ましたが、すでにヨーロッパではそのような教育も行なわれているそうです。社会性と論文書きの2つができますし。

中学・高校の期末試験も同じだった

2016-09-19 10:50:12 | 日記
  入試だけでもなかった。今は中学・高校でも試験に論文式をかなり取り入れていると聞いているが、特に1980年代までは○×式と断片筆記が多かった。筆記障碍の生徒が多かったせいもあったかも知れないが、僕の母校の光明養護学校でもそうだった。だから、その延長でに入試の問題が僕にも理解できるのかもしれない。○×式と断片筆記は記憶力が物を言うわけだから。その代り、余り思考力は身につかないだろう。歴史も、英語も、法律も全て暗記物だと誤解している日本人が多いのではないか。僕も放送大学で法律関係も学ぶまでは、それを暗記の学問だと誤解していたわけだし。


  断片学習の問題は本当は戦前の方がひどかったらしい。1921年生まれの父上は受けた歴史教育について、「歴代天皇の名前を暗唱する事しか習わなかった」と言ってたから。調べてみたが、昭和天皇が124代目である。124人の人名を記憶できるだろうか。特殊な能力のある人でないとムリだと思う。仮に覚えても、何の役にも立たない。おかしかったと思う。

  確かに、論文式は一人一人答えが違うし、採点も難しい。先生の能力も問われる。とは言え、実際は必要である。ヨーロッパでは伝統的に論文式の試験が盛んである。特に戦後のドイツの場合は、「何故、ナチスが悪いか」の問題は生徒一人一人に論文を書かせないと成立しない問題なのかもしれない。

  論文は物事を客観的に叙述するのが核であり、自分の感情を書く事が求められる作文とは異質であると述べる。その違いも大事なことである。

  従って、僕も光明養護学校にいる時は論文は書けなかった。でも、1977年に福祉会で障碍児施設のS園に行くようになり、その様子を福祉会関係や縁者への手紙に書くようになり、そこから論文の書き方を偶然にも掴んだ。その数年後から始めた放送大学で更にその練習をしたわけだが。その意味では、僕はS園を訪問して良かったと思っている。その訪問がなければ、子供向け文も、ブログやフェイスブック活動もなかっただろうから。

  僕の事はともかく、断片学習しかさせられなかった人はその分だけ脳の働きも弱まるかもしれない。高齢になり、認知症になる確立が高くなるのかもしれない。お医者様たちはその問題も検証した方が良い気もするが。とにかく、教育の事は色々な意味で、福祉や医学にも絡んでくるわけである。皆さまも目を向ける必要があるのではないかと。このシリーズは更に書く必要があるのかもしれない。

日本の受験改善が非常に遅れた理由

2016-09-17 10:43:28 | 日記
  簡単である。当事者である中学・高校生と、大学予備校生は受験勉強が忙しく、その改善運動どころか、悲鳴を世間に訴える暇もないからである。特に、ITのなかった時代は尚更。その一部の者がストレスのため、親に暴力をふるったり、精神病になるくらいで。


  また、一旦大学生になると立場が変わる。遊んでも卒業できるし、大学生の肩書で家庭教師のアルバイトもできる。こんな良い立場は他にないわけで、受験改善運動する気持ちも起きないわけだ。

  一部の教師や教育評論家たちが受験改善運動したが、当事者の声ではないから迫力がなく、マスコミが取り上げても、世間も、政治家も余り動かなかった。障碍者や高齢者関係とは違い、これでは改善も遅れるわけだと。やはり、当事者が声を上げられず、闇から闇に葬られた未就学の身障者の問題とも共通する面がある。その意味でも、僕は興味深く感じる。

  でも、物心付く時期に、他人や社会にも目を向ける事もなく、役に立たない断片知識の丸暗記をさせられた多くの人たちはその後も大きな弊害が出ているはずである。精神状態にも影響が出ているはずだ。日本では1980年代ごろから精神病患者が増えたり、思考力欠如と思われる殺人事件も増えているが、10代の時の受験勉強経験も根にないのか。難しいかも知れないが、心理学者や教育関係者はきちんと検証して欲しいと思う。

健全児たちも受難だった

2016-09-15 10:01:55 | 日記
  確かに、行政の対応が遅れて、一生を棒に振った身障児も多かったですが、では、健全児=障碍を持たない子供たちはどうだったか?と言えば、これもひどい状況でした。


  日本人の皆様はご存知の通り、かつては大都市では、小中学校で一学級に50人位の生徒がいた所もありましたね。一人の担任の先生はそれだけの子供たちの世話はできません。

  それともっと大きな問題は高校・大学受験でした。中学時代は高校受験が目的で、高校時代は大学受験が目的。受験勉強をそれぞれの一年生からする始末。日本の受験勉強は知識を断片的に覚え込むわけです。高校・大学受験は○×式や、単語を書くのが主流だから。今でこそ論文式が増えていますが、採点する側の都合で○×式みたいものが多かったです。

  そのような事ばかりすると、例えば、基礎から積み重ねるとか、長い視野で社会や人生を見る事もできなくなる。大学に入っても、学び方も知らないわけだから、遊んでしまう学生も多かった。何の為の大学なのか、判らない始末です。個人個人の能力もそれでは伸びません。とにかく、断片的にしか物事を見る事ができない人たちが戦後世代は増えているという話は僕も多く聞いています。それも根をたどれば、受験勉強と学校教育にあると考えざるを得ないです。

  今は今で、保育園関係が問題になっていますし。根本的には解決していません。大学問題ですが、解決策は非常に簡単なのに。入学は入りたい人をできるだけ受け入れて、逆に卒業試験を大変難しいものにすれば良いのに。受験弊害も、遊ぶ学生もいなくなるわけですが。何故、そうしないのでしょうか。判りませんね。

  明治時代は日本政府は教育に力を入れましたが、いつの間にか、それが消えた。あるいは、第二次世界大戦中、軍国教育ばかりして、教育の程度を落としましたが、それをきっかけに日本の教育は狂っていったのかもしれません。歴史的検証が日本の教育には必要かと思います。