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議論の問題・記憶忘れなどだけか

2016-12-10 17:24:18 | 日記
  昨日述べた通り、確かに記憶忘れや誤解の件は大きいです。それでは、会話の議論を廃止して、ネットや筆記議論に変えたら、どうなるでしょうか。


   確かに、マシにはなると思います。でも、その議論から素晴らしい案とか、優れた文明が輩出する事はないでしょう。人間の知性や理解力には限界があるから。この種の根本問題はそこです。

  どうも各国共、教育関係は議論すればするほど、悪くなっている気がしてなりません。僕の思い過ごしでしょうか。教育が典型例ですが、他の多くの問題もそうだと。歴史を見ると、どうなるか。フランス革命にしろ、明治維新にしろ、それを起こした多くの人民は最初に行動しているし、行動せざるを得ない状況がありました。規模ははるかに小さいですが、1966年には僕も入っていた光明養護学校では、要介護身障児が増えたため、先生と父母たちが立ち上がり、東京都に介助員設置の運動を起こしました。その件も「初めに行動ありき」でした。議論みたいな事は事務的な事だけだった。議論はなかったと言えましょう。勿論、僕の父母も運動したため、その証人でも僕はあるわけですが。

  過去の事はともかく、学校関係にしろ、何にしろ、何か行動できる事はないのかな。議論にとらわれず、静かに行動できる事を探したらよいかもしれません。劇的に学校は変わるかもしれないと。

  (やや違うかもしれませんが、新約聖書の後半を見ても、パウロがキリスト教内部の論争に悩む箇所が出てきます。イスラムや仏教でも、議論からのケンカが多いですね。イエス、ムハンマド、シャカは議論を望んだでしょうか。行動を望んだように僕には思えますが。「空しい議論」をシャカは批判もした。イエスやムハンマドはどうだったのか。とにかく、宗教の歴史からも、議論の空しさが感じられてなりません)

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