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高島平団地について

2018-04-06 14:22:23 | 日記
  1978年、当時所属していた東京VYSという福祉会の一員として、東京都板橋区の高島平団地で子供会のサポーターをさせてもらい、子供たちと一緒に遊びました。子供会の様子はこれまでも時々書いていますが、最近は視点を変えて、高島平団地自体も考えるようになっており、これから何回にも渡って述べていきたいと思います。今日はその歴史などを簡単に紹介します。


  そこは東京都の最北部にあります。江戸時代(1603年から1868年)は「徳丸ヶ原」と呼ばれていました。最初は未開の地でしたが、次第に農村になり、良い水田の地になりました。人口が多い江戸の町にお米をたくさん供給していたわけですね。とは言え、徳丸ヶ原も江戸の内には含まれなかったわけですが。1841年には砲術家の高島秋帆がそこで西洋式の砲術などの軍事訓練を行い、「高島」の名を残したわけです。明治になり、最初は浦和県(=埼玉県)に置かれていましたが、明治4年=1871年、東京都に編入されました。その後もお米を作り続けました。


  戦後になり、工場が周囲にも増えて、付近の水は次第に汚染され、水田に不向きになり、農村は衰退していきました。そして、東京の増える人口の住宅対策のため、昭和41年(1966年)、日本住宅公団がその一帯に大規模な団地を作る事を計画。当初は5階建て建築にする予定でしたが、14階建てに変更され、地名も高島秋帆に因んで、「高島平」に1969年に変更。その年から着工を始め、1972年から住民入居が始まりました。当時の首都圏は住宅不足であったことから、非常に早く住民が集まり、団地だけで2万人。高島平地区全域では、5万人もいたわけです。人口のピークは1992年。今は減り続けており、特に子供が減り、小中学校は統廃合が相次いでいます。

  今日は基礎知識として、ヤフー検索したものをまとめて書きました。次回から、そこで見聞きした事を書いていきます。S園とも趣が違う問題がたくさんあります。根が深い。僕もよく判りませんが、あるいは、いくつもあるだろうS園の根の一つとつながっているのかもしれません。今の僕はそのような気もしています。また、案外、僕自身の問題ともつながっているのかもしれない。人間は自分とは全く関係のないような所には行かないと思われるからです。ブログの新シリーズです。