8月1日(木)。わが家に来てから今日で1583日目を迎え、トランプ米政権が 東アジアの主要同盟国である日本と韓国に対し、「アメとムチ」を織り交ぜた要求を突き付けている というニュースを見て感想を述べるモコタロです
日韓仲裁という大義名分のもとで 最終的に漁夫の利を得るのはどこの国だろう?
昨日、夕食に「豚バラ麻婆茄子」と「小松菜のお浸し」を作りました 「豚バラ~」は豆板醤の辛みが効いていてとても美味しいです
昨夜、ミューザ川崎で読売日本交響楽団のコンサートを聴きました これは「フェスタサマーミューザ2019」の一環として開かれたコンサートです プログラムはブルックナー「交響曲第8番ハ短調」(ノヴァーク版:第2稿1890年)です 指揮は井上道義です
井上道義氏については今さらご紹介するまでもないと思いますが、念のため当日配布のプログラムに掲載のプロフィールを簡単にご紹介します 1946年東京生まれ。桐朋学園大学卒業。ニュージーランド国立交響楽団首席客員指揮者、新日本フィル音楽監督、京都市響音楽監督、大阪フィル首席指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を歴任 2014年4月、喉頭がんのため一時指揮活動から離れるが同年10月に復帰 そして、プロフィールの最後の1行にこう書かれています。「自宅にまたアヒルを飼っている」
この1行は井上氏の「オフィシャルサイト」のプロフィールにも書かれていますが、もともとは「自宅にアヒルを飼っている」だったのが、途中から消えて、今度は「自宅にアヒルを”また”飼っている」として復活したのです。なぜわざわざアヒルを登場させているのか、理由までは書かれていません 私の勝手な推測は次の通りです
井上道義氏の小学校時代からのニックネームは「ミッキー」だった ミッキーの相棒はだれか? 「ディズニー・ワールド」ではミッキーマウスの相棒はドナルド・ダック(つまりアヒル)だ ここからミッキーとアヒルを結び付けてアヒルを飼うようになったのではないか さあどうでしょう? 真相は本人に訊いてみなければ分かりません
ブルックナー「交響曲第8番ハ短調」はアントン・ブルックナー(1824‐1896)が1884年から1887年にかけて作曲(第1稿)、その後、1889年から1890年にかけて改訂(第2稿)した、全4楽章の形で完成した最後の交響曲です この日の公演では最も多く演奏される「ノヴァーク版 第2稿」によって演奏されます
第1楽章「アレグロ・モデラート」、第2楽章「スケルツォ:アレグロ・モデラート」、第3楽章「アダージョ(荘重にゆっくりと、しかし遅すぎず)、第4楽章「フィナーレ(荘重に、速くなく)の4楽章から成ります
午後7時からの本番に先立って、6時20分から井上道義氏によるプレトークがありました 彼はギュンター・ヴァントの大きな写真パネルとともに登場、概略次のように語りました
「約50年前(1968年6月20日)にギュンター・ヴァントが読響定期演奏会でブルックナーの第8番を振った時のリハーサルを「よみうりランド」にある読響の練習所で隠れて聴いたのが読響との出会いだった そのような経緯もあって、今回のコンサートで指揮の依頼があった時、まさか受け入れてもらえるとは思わずに、ブルックナーの第8番を提案したところ、受けてもらえることになった 例年は夏休みを取るのだが、今年はそういう訳でブルックナーを指揮することになった ブルックナーはジジイになってからでないと振れないということになっている もっともダメな人は一生ダメだ。朝比奈隆さんがブルックナーを振ったのは50歳を過ぎてからだった。彼からは大阪フィルの指揮をした関係でブルックナーの交響曲の楽譜を受け継いだが、楽譜には事細かな書き込みがあり、勉強の跡が見えた しかし、実際の演奏は楽員に任せっぱなしで、勉強の成果が生かされていなかった これは彼を非難しているわけでは決してない(と言っているが、非難しているとしか思えない)。50年前の読響は男のオケだった。女性はハープのみだった。男は常に他の男に追い抜かれるのではないかと恐怖心を抱いているところがある そこで男ばかりの集団はギクシャクする。男には女が必要だ 現在の読響は当時とはまったく違う。素晴らしいオケだ ブルックナーの話に戻ると、交響曲第7、第8、第9番は特に素晴らしいと思う 「先に進んで欲しくない、いつまでも音楽に留まっていてほしい」と思う音楽だ 音の響き、旋律、リズム・・・同じことが繰り返されるが、それが愛おしく思われる。そういうことが、ジジイになると分かってくる 第8番はノヴァーク版とハース版とあるが、私は分かり易いという点でノヴァーク版を選ぶ。ブルックナーの音楽は教会の聖堂で聴くのが相応しいような音楽だ。1階席より2階以上で聴いた方が良さが分かると思う 1階席の人で、もしも2階席が空いていたら移動したらどうか(指揮者がそんないい加減なことを言っていいのか)。本当は、指揮者は演奏に当たり あまり話さない方が良いと思う」
さて本番です と思ったら、開演7分前に「ただ今、京浜東北線が運転を見合わせている関係で、開演時間を10分遅らせ、7時10分とさせていただきます」というアナウンスが入りました どうやら人身事故があったようです それ以上の遅れが心配されましたが、7時10分には開演しました
オケは左から第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、その後ろにコントラバスという いつもの読響の並びです コンマスは日下紗矢子さんです
井上氏が登場し、さっそく第1楽章に入ります。冒頭のホルンがずれているように思いました この楽章を聴いて思ったのは、井上氏は「力で押しているな」ということです。私は特に第7番以降はブルックナーが神に捧げた音楽だと思っています その観点からすると、やや強引な音楽作りという印象を受けます。確かに管楽器にしても弦楽器にしても打楽器にしても良く鳴っています。しかし、どこか「やらされている」感があるのです 別の言葉で言えば、楽員の自発性に基づいた音楽作りが聴こえてこないのです それは第2楽章のスケルツォでも同様でした。軌道修正されたのは第3楽章「アダージョ」でした まさに神に捧げる”祈りの音楽”です しかし、第4楽章に入ると、また「力で押す」演奏に戻ってしまいました 井上氏はプログラム・ノートで「ブルックナーは、身体的にとても合う作曲家。ムリがないんです。指揮者というのは身体から発するものが音楽になるので、これは大事なことです」と語っていますが、私にはそうは思えません ショスタコーヴィチやマーラーだったら「身体的に合う作曲家」というのが分かる様な気がしますが、ブルックナーは同じ爆音交響曲作曲家でも違うのではないか、と思います
圧倒的な拍手とブラボーにカーテンコールが繰り返されましたが、井上氏は最後に大きな声で「夏休み」と叫んで舞台袖に引き上げました
プレトークで本人も語っていた通り「指揮者はあまり話さない方が良い」のです 井上氏は聴衆へのサービス精神からいろいろと面白可笑しく話をしたのでしょうが、喋り過ぎです 「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということわざもあります 男は黙って札幌麦酒 はっきり言ってプレトークは必要なかったと思います
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