tomitaikyoブログ

富退教(富山県退職教職員協議会)事務局からの情報発信です。会員の親睦を中心に教育現場への支援など様々な活動をしています。

熊本地震 教育復興支援ボランティアに参加して(会員寄稿)

2016年08月17日 | 会員の寄稿

  今日(8/17)、富退教会員の中村勇さんから、日教組へ提出した「ボランティア参加の感想文」を届けていただきました。以下に掲載します。


      熊本地震 教育復興支援ボランティアに参加して
                               
                    富山県退職教職員協議会(富山県教組OB) 中村 勇
                                           
 私は今、阿蘇熊本空港へ着陸体制に入った飛行機の中にいる。
 窓の外では、ブルーシートに覆われた家々が次第にその数を増していく…。これがあの熊本地震のつめ跡なのか…。シートの下の家はまだその当時のままなのだ…。
 飛行機を降りて熊本市内に入った時、殆ど被害が目にとまらなかった。ただ、いくつかのホテルでは、足場を組んで覆いをかけてあったのが目にとまった。熊本城は天守閣の瓦や石垣などがあちこちで崩れていて見学できない状態だ。
 熊本市を出て益城町に入ると壊れた家の数がどんどん増えていき、壁が傾き屋根がウエーブしている家、2階建ての家がぺちゃんこになっている家、などなど当時の地震(震度7)のすごさを目の当たりにして言葉が出なかった。被災者はどんな気持ちでいるのだろう…。夜、熊本市内に住む大学時代の友人に再会し、被害の様子を尋ねると、「壁が一部崩れただけだよ」との返事に安堵する。
 8月2日から6日まで、日教組の呼びかけで「熊本地震にかかわる被災地支援教育復興ボランティア活動」として熊本地震で最大の被害があった益城町の教育復興ボランティアに参加した。(益城町の全小中学校・7校に2名ずつ合計で14名派遣された)私がお手伝いをさせていただいた学校は、益城町立益城中央小学校だった。
 最初の日、校長先生に玄関で迎えていただいた。校長室で今回の地震の被害状況の説明を受ける。前震、本震と激しい地震を2度経験した。その後も余震が続き、発生件数が過去の他の地震と異なり、余震回数は7月末で1944回を超え、まだ続いているという。
 児童はだれも犠牲にならなかったことが不幸中の幸いだったこと、また、家が被災した児童たちが一時益城町から避難しつつも学校が再開された時、引っ越すことなく益城町の学校に戻ってきたこと。校舎は建て替えて6年目だったため、鉄筋校舎と木造校舎の境目が少しずれた程度で済んだこと。体育館は避難所となっていること。先生の夏休みはあまりなく、すぐ2学期の準備が待っているため、自分の家のことに時間がかけられないことなど…。学校が、地域の支えとして重要な役目を果たしていて、先生方への負担はかなりなものだということを感じた。(東日本大震災当時のことを思い出した。)
 校舎外の活動担当の事務官と校舎内の活動担当の教諭と活動の打ち合わせをした。午前中はグラウンドの周囲の草刈り。午後は、校舎内の器具庫の備品の整理や職員室のエアコンのフィルターの掃除、玄関の照明の掃除、災害支援物資の整理等を行った。暑い日が続いていたので休憩時間と水分補給を十分できるように配慮していただいた。草刈りは3日間、連日35度から36度の猛暑の中の作業だった。しかし、富山と違い、からっとした空気で時々風が吹いてくるので仕事がはかどった。また、3時の休憩時に教頭先生からの差し入れもあり、さらに活動に力が入った。
 活動の最後の日、避難所となっている体育館に案内していただいた。避難している方々は、体育館の一角に設置してある「きままカフェ」に集まり、支えあって生活している。私もカフェでコーヒーをご馳走になった。避難者は全員8月19日までに仮設住宅入りが決まっているとのことである。
 活動を終え、8月6日阿蘇熊本空港から羽田へ向かう飛行機に乗る。離陸直後、窓の下に見えていたのは上益城郡のブルーシートに覆われた家々。来た時と同じ景色だ。私たちのボランティア活動は終わったけれども、復興はまだまだこれからだ。がんばれ、熊本!


会員寄稿(2)中島 正平(小矢部市)

2015年11月20日 | 会員の寄稿

 今月(11月)26日発行予定の富退教だより139号への寄稿として中島正平(小矢部市)さんから以下のような寄稿文が届きました。一足先に掲載しておきます。


 

 『図書館戦争・・・』を観て思ったこと 
                                                    中島 正平(小矢部市)

 

 先月、「図書館戦争 THE LAST MISSON」なる映画を観てきた。この映画は、有川浩氏の小説、「図書館戦争」シリーズ全4巻をもとに作られた映画で、2013年に公開された映画「図書館戦争」の続編にあたる。
 両作のあらすじは、『青少年に悪影響を及ぼす有害情報や人権を侵害する表現が氾濫し、その影響を受けたと思われる犯罪が増えだした1988年、これらを規制するための「メディア良化法」が制定される。やがて、法の施行に伴い、不適切とされたあらゆる刊行物・創作物は、良化法の執行機関である良化特務機関(メディア良化隊)によって厳しい取り締まりを受けるようになる。世の中の情報がどんどん制限され自由が侵害されていく中、これらの検閲に立ち上がったのが公共図書館である。図書館側は、「図書館の自由に関する宣言」を基に「図書館の自由法」を制定し、図書館と本の自由を守るべく、自らも武装した図書隊を結成して防衛体制を整える。以後、図書隊と良化特務機関との武力を伴った過激な戦いが繰り広げられていく。』といった内容で、武力による攻防戦などかなり現実離れした内容ではあったが、図書隊員の成長や恋愛劇もあり結構楽しめた。
 さて、このようにかなり荒唐無稽な話で、全てが架空の設定だとばかり思い込んでいたが、図書館に関わるようになった今、上記の「図書館の自由に関する宣言」が実在していたことに驚かされた。
 実際の宣言の項目のみを抜き出すと、以下のようになる

      図書館の自由に関する宣言      
                                    日本図書館協会  1954採択 1979改訂

 図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、最も重要な任務とする。
 この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。
  第1 図書館は資料収集の自由を有する
  第2 図書館は資料提供の自由を有する
  第3 図書館は利用者の秘密を守る
  第4 図書館はすべての検閲に反対する
 図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。

 これは、映画の内容とほぼ同一であり、かなり過激な表現といえる。そして、逆に考えれば、1950年初頭に図書館の自由が侵害されかねない状況であったことが伺えてくる。そこで、その背景を探ってみると、1952年に治安維持法の後継と目された破防法が成立していることが分かった。幸いにして、社会党等の尽力でかなりの部分が削減された破防法は、有名無実に近い内容となり、今日のメディアの自由につながっている。
 さて、多くの国民の不安と反対をよそに、先の国会で「安全保障関連法」が強引に可決されてしまった。その影響が出るのはまだ先のことかもしれないが、どこまで拡大してしまうか計り知れない曖昧さがある。今回の映画から、改めてその怖さを知らされた思いである。

 


会員の寄稿紹介(1)

2015年02月12日 | 会員の寄稿

 先般、会員から寄稿して頂きましたが、富退教だより135号の紙面が決定していたので掲載出来ませんでした。次号での掲載を約束しましたので136号に掲載させて頂きますが、一足先に以下に紹介しておきます。


 

         あいの風自由人の西国観音巡礼とマジックパワー
                                               執筆:中村 勇(あいの風自由人)
 皆さんは観音霊場巡りをどのように思っていますか?
私は、西国三十三カ所観音霊場巡りを始めてから33年目に満願となった。自身の教員生活が33年(本県)で。私は、昭和28年生まれである。霊場巡りの最後が28番札所の天橋立のある成相寺だったのである。しかも6月28日その日が満願の日であった。偶然が重なるというのはこういうことなのかと驚いてしまった。人生において数字のマジックに遭遇したのは初めてであった。   
<満願の証の28番成相寺> 
  昭和56年、私は縁あって奈良県で教員をしていた。そして、4月からは富山県の教員として働くことになっていた。さかのぼって3月末にお世話になった勤務校の校長先生と那智勝浦方面へドライブした折に参拝したのが一番札所那智山青岸渡寺だった。朱塗りの五重の塔の奥に見える那智の滝。この美しい景色に感動し、記念にと買い求めたのが「西国三十三霊場納経帳」だった。霊場巡りのスタートである。その後、しばらく霊場巡りはストップする。富山での教員生活を忙しく過ごす日々が何年か続いた。
 40代から50代にかけて自分自身の心に迷いが生じたことがあった。そのとき自分の心に平安をもたらしてくれるものは何か考えた。マラソン、登山、釣り、観音霊場巡りetc。何かに熱中していたらいいのかな、と考えたりもした。自分は、どこから来てどこへ行く存在なのか?この世をさまよっているだけの存在にしか見えなかった・・・。いろいろ考え行動する中で、1年に1回は、何か心に残る行動を自分で納得できるまでやってみたい。大きなこと、小さなこと何でもよい。1年間を振り返ってみて「よかったな」と思えるものであれば、と考えることにした。どうせ短い人生なのだから、思い出多い人生にしていこう、楽しい人生にしていこう、と心に決めた。いくつかある趣味の中で、西国巡礼に強く関わるようになったのは、今から6年前に母が80歳で他界してからだ。それまでは何年かかることやら、でも、一生のうちに行けたらという程度に考えていた。母の死を機に母の供養と家族の安泰を強く願うようになったため、巡礼に拍車がかかった。折しも平成21年22年は、各寺の観音様が相次いでご開帳される年だった。好機を逃す手はないとさらに巡礼に拍車がかかる。息子が京都で学生生活を始めたのも追い風となった。巡礼のスタートがしやすくなり、次第に巡る寺数も増えていった。親子で参拝した日々もあった。
 観音様は、正式には、千手千眼観世音菩薩といって、修行中の身であり、私たちと仏様の間にいらっしゃる。すなわち、私たちの願いを千の目で見て、千の手で救い、33に身体を変化させつつ願いの実現に向かって働かれるのである。
 各寺院の観音様の願い実現の得意とするところはそれぞれ違う。けれども、巡礼を終えたときに願いの輪がつながるというか、33の御利益が凝縮されたというか、不思議な気持ちになってきたのを思い出す。人里離れた山の中の寺、湖に浮かぶ島にある寺、湖を見下ろせる高台にある寺、山門から本堂まで30分以上登山しなければならない寺などなど。御朱印帳を眺める度に感謝の気持ちでいっぱいになる。
 現在、特に変わった生活をしているわけではないが、日々の生活が平穏無事で過ごせているのは観音様のおかげなのだと感じながら過ごしている。また、今年度自治会会長と公民館主事を兼務させていただいているが、大きなイベント・行事が、好天のもと粛々と続いている。
 ちなみに11月12・13日の富退教の研修旅行も下車地では、好天に恵まれた次第である。まさに観音様に感謝である。


 以上のような大作を寄稿して頂きました。原文には写真も添えてありましたが、ここにはコピー出来ませんでした。「富退教だより136号」には、そのままコピーできると思います。    

 今後も多くの会員から寄稿して頂けると幸いです。 楽しみにしていますので、よろしくお願いします。(土)