浅草馬道から待乳山聖天に向かってあるいていて、この看板を”発見”しました。
さあ、久方振りに薀蓄スタートです
江戸が当時世界最大の都市に発展していく道中、行政側から見れば、庶民のエンターテイメント、”欲望”といったものをコントロールしつつ、締め付けない、というのが大切だったのだろう、と本ブログで独立カテゴリーにしている「文化文政」の頃の話とか読んで考えておりました。
この猿若町、写真でも読めるように猿若三座が置かれた場所。
ここに歌舞伎小屋が置かれるようになったのは、正に上述の時代、天保改革の頃。
それまで木挽町にあった歌舞伎小屋が失火により被害を受けた際、時の老中水野忠邦はそれまで奢侈を禁ずる、ということで目の敵にしていた歌舞伎に対する抑圧の機会として、江戸市中から遠いこの地を代替地として指定した、というのが経緯。
で、ここ聖天町は猿若町と改名、江戸三座がこの地に隣接するメリットが出る一方で、水の老中が失脚した結果、皮肉なことにこのエリアが1840年代~幕末まで芝居+浅草寺参詣(+多分吉原)という一大エンターテイメント・スポットになった、が薀蓄。
これが浅草が明治期、東京最大の繁華街であった背景ともなっています。
ふーっ
今ではそんな過去があったとは思えない、静かな街並み。
歌舞伎座も木挽町に戻り、今は静かに時が過ぎていく、そんな空間になっています。
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