忍草浅間神社は大同2年(西暦807年)に創建されました。桧皮葺屋根・三間社流れ造りの本殿は村指定重要文化財です。
とはWikiの語るところ。
この社殿が1,000年を超えてのものか不明ですが、
本殿に祀られている木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・鷹飼(たかがい)・犬飼(いぬかい)坐像の三神像は、正和4年(西暦1315年)丹後国の仏師静存の作と伝えられています。
と言いますから、凄く古いものであることは間違いない。
って言っても精々数百mですが、
趣きあります。
最後はこの日停めた駐車場からの富士、
秀逸でありました。
冒頭フューチャリングはこの日の周回ルートからは最後の池になるのですが、
逆さ富士、ご覧ください。
何てね、紹介記事始めましたが、
確かに昔から気になっていた近くて遠い富士五湖の観光名所、
確かに綺麗、面積は広くないっすけどね。
ちなみにこの冒頭紹介は鏡池。
ネーミングに由来は見ての通り。
それでは、訪問順に紹介開始すると…
そこから見た富士山は秀逸。
そこからエリアに入って最初はお釜池。
水澄み切っていた透明度抜群、綺麗にお魚さん達が見えました。
富士山はこんな感じ。
秋、でしょ😍
小さな魚まで良く見え、
不思議だったのは敢行案内所と塀に囲まれたもう1つ、一番大きい、池がマップ上からも削除されていること。
これと、少し離れた出口池が加わって八海となっていることと関係あるかも知れません。
ここも鏡池なのかな?
完璧な観光地でありました。
訪問の少し前オンエアされた「ブラタモリ」でも訪問のこちら。
由来は… 本当かな??
景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。そのお言葉に従い大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。
ですから、1,900年以上の歴史を持つ本宮。
天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
とのことで…
本殿に向かったのですが、
神木てんこ盛り^^;であります。
初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701)の役小角という行者であるとされ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、天正5年(1577)に登山しています。
から、この神社がこの地にてどういう存在となったかを知る縁となり、
富士講は「江戸の八百八町に八百八講あり」といわれるほどに繁栄し強大になり、甲州街道と富士みち(現国道137号線)を通って吉田口(北口)登山道から入山する関東一円、更に北陸や東北、関西にまでも拡大しました。
ということで、
中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、享保18年から元文3年までの6年間(1733~1738)で、境内社殿の大造営を行いました。現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えています。
そして、
貞応2年(1233)北条義時造営ののち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また、文禄3年(1594)浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側におうつしされています。現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建で、いずれも国指定重要文化財です。
で今に至っている。
TVでも見た御師の旧跡は地図見間違えにて断念しちゃったのは内緒の話。
富士山は現在の火口以外にも溶岩流を排出した歴史があり、
ここは約1,000年前の溶岩流が形作った溶岩洞窟。
そして、江戸時代富士講の人たちは当時のメインの登山道、吉田口から程近いこちらで胎内めぐり→生まれ変わり、を体験するのが常だったとか。
かつ狙っていた紅葉台までの道路が路肩崩落などで車での通行は控えろ、と言う看板もこれありで断念。
吉田口からの登山道沿いの紅葉ポイントを目指して偶々"発見"しました。
胎内への入口ともなっている神社の名前の由来はご神体の木花咲耶姫伝説から来ているようです。
フィールドセンターの方からも180cmの私はメインである母の胎内=ご本尊の木花開耶姫への面会は諦めた方が良いと言われ、
まあ、多分その通りだったでありましょう。
富士講フェチとしては貴重な経験でした。
河口湖南岸、
文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって霊山富士二合目に奉斉されたと伝えられる。
その後708(和銅1)年に祭場の形を造り、720(養老4)、807(大同2)年に雨屋、社殿を創建された。
富士噴火のため焼失したが、その後、しばしば再興、増設された。社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことによるものである。
が由来。
特に戦国時代には甲斐武田家三代に渡り崇敬を受け、武田信玄公直筆の安産祈願文を始め、多数の古文書が今も保管されている。現在の本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建てられたものである。その後4回の大改修を経て、昭和48年(1973年)に富士山二合目から里宮に移築された。
が今につながる経緯ですかね。
流石でありました。
今回の記事は時間差、2つの時間帯で訪問のご紹介。
最初は午後3時過ぎ位なのですが、秋になって光線はずいぶん低い角度で差し込んで来ています。
ここは河口湖畔南東側、
湖に流れ込む川ぞいにモミジがある訳です。
基本日当たりが良いと紅葉が進むのが見て取れます。
最後なんて川沿い、木の先っぽだけに陽が当たって、ということでしょう。
さtw、それから2時間弱、5時前にはライトアップ始まったのですが、
コンデジの限界ですかね、どうしても様子を明るく撮ってしまう.
とライトアップされた木を近くから。
実際にはもっといっぱい写真撮りましたが、この辺りで紹介終了。