歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

韓国 1926~1931年当時の京都帝国大学建築学教室助手・能勢丑三の行跡

2010年08月25日 | Weblog
 聨合ニュースでは25日、1926年当時、京都帝国大学工学部建築学教室助手であった能勢丑三(のせ うしぞう)について、9点の写真とともにかなりの量の記事が書かれていた。
 冒頭は、1926年に朝鮮総督府が発掘調査した新羅時代の積石木槨墳「瑞鳳塚(서봉총)」(慶州市路西洞)の名前の由来の話。その年に発掘現場を訪れたスウェーデン(漢字表記:瑞典)のグスタフ アドルフ皇太子と出土した金冠の鳳凰飾りから一字ずつ漢字をとって名づけたという。皇太子を現場まで案内したのは、当時、京都帝国大学総長・濱田耕作(青陵)(考古学者)、そして、随行団の一員として同大学工学部建築学教室助手・能勢丑三がいた。ここで、就実大学大学院(岡山)賈鍾寿・教授が整理した能勢丑三の略歴が文章にて紹介されている。

1889年8月17日 京都市で生まれる。
 京都市立美術工芸学校図案科と京都高等工芸学校図案科を卒業。建築設計事務所に勤務。
1923年 京都帝国大学工学部建築学教室助手に就職。ここで古代建築研究に没頭し、その後、同大学考古学教室に配属されたりもした。
1926年 前述の慶州訪問を契機に朝鮮の文化遺産に魅了される。 1926~1931年まで全10回にかけて、父親から受け継いだ莫大な財産を元手に私費まで叩いて、朝鮮各地をくまなく探し、遺跡見学と発掘)調査、そして文化財復元を行う。
 彼の全般的な業績は、これというほどのものが学界では整理されていないが、韓国では十二支像(십이지상)の重要性を最も早く感知して先駆的な業績を上げたとしている。また、単純な見学に満足しないで関連遺跡に対する発掘調査も併行した。
1928年 慶州遠源寺(원원사)址を現地調査し、一方、皇福寺址で石塔基壇場所を発掘調査した。 また、開城の高麗王陵の調査も併行した。
1929年 高麗王陵と華厳寺西塔を調査し、遠源寺址の発掘を開始する。
1930年 遠源寺址を実測調査して、成徳王陵をはじめとする慶州地域新羅時代王陵の十二支像を調査するなど、1931年末まで朝鮮での文化財調査行跡を継続する。
1931年 遠源寺址三層石塔(雙塔)を復元した。

 賈教授は、彼が残した韓国文化財関連各種写真が現在、奈良市の文化財専門写真会社・飛鳥園に約2千500枚に達するガラス乾板で未整理のまま残っているとし、このような能勢丑三の資料に対して、韓国政府サイドの調査と整理が必要だとしている。
 賈教授は、最近発刊された季刊「韓国の考古学」夏号を通して、上記のことをまとめ紹介した。
[参考:聨合ニュース]


備考: その後の能勢丑三簡単な略年譜
1932年 文学部に異動し、考古学教室勤務を命じる。
1938年 京都大学文学部を依願退職。 その前後より、石塔の調査研究を行う。
1947年 京都師範学校講師。日本考古学を教える。
1953年 大阪市立大学文学部講師。考古学研究法を教える。
1954年 歿す。(享年66才。)
[参考:考古学京都学派・角田文衛編より「能勢丑三略伝」/角田文衛 (1994 雄山閤出版)]

備考:KBSニュースでは、11枚の写真を公開している。


追記 2017.2.2
 2017.1.31朝鮮日報は、「90년 전 일본 학자가 찍은 경주 발굴 사진 700장 공개(90年前、日本学者が撮った慶州発掘写真700枚公開)」と題して、
慶州学硏究院は1920~1930年代日本人建築、考古学者・能勢丑三(1889~1954)が慶州一帯を発掘調査して撮った写真と図面700枚余りを30日、本紙に公開したと発表した。
 写真は飛鳥園にガラス乾板状態で未整理のまま保管されていたものである。
 能勢丑三は新羅遺跡見れば感激するので現地の人々からは「感激先生(감격선생)」と呼ばれていたそうである。
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府中本町・武蔵国府関連遺跡 国司赴任開始以前の「国宰の館」遺構か

2010年08月25日 | Weblog
(写真は府中本町駅の裏側に当たる。遺跡からは西側部分になる。右側が北方向、左側が南方向となる。2010.5撮影)

 読売新聞夕刊およびインターネット・ニュースで、府中市の「武蔵国府関連遺跡」で見つかった建物跡が、大和朝廷が大宝律令(701年)に基づいて国司を送る以前の7世紀に、中央から派遣された国宰(くにのみこともち)が政務を行った場所である可能性が高いことが25日、わかったと報じている。全国で国宰の館とみられる遺構が見つかるのは初めてという。
 今回、これまでに見つかった建物群の西側(注1)の穴から7世紀末頃の特徴を持つ皿などの土器が多数見つかった。建物配置が東西南北に軸をそろえて配置され、格式の高い場だったことをうかがわせる一方、完全な左右対称になっていない(注2)ことなどから、国府の形式が整う以前から使われていた可能性が高いとするとのこと。
[参考:読売新聞]

(注1) 建物群の西側の穴といっても、位置がどの辺りかわからない。写真は建物群の西側部分に当たり、右が北方向、左が南方向になる。右側は今年の5月の現説では、ブルー・シートで覆われていた。
(注2) 建物の配置が完全な左右対称になっていないとするが、今年の5月の現説では、脇殿(東)が府中街道にあるかもしれない。そうなれば、左右対称に近くなると説明を受けた。

「国宰の館」遺構か…中央から派遣され政務(読売新聞) - goo ニュース

2010.9.23追記 
「武蔵国府関連遺跡」/府中本町駅前発掘対象の土地買取へ
 府中市は、7世紀末から8世紀前半に存続した迎賓館的な機能を備えた国司館跡、徳川家康が建てた「府中御殿」とみられる建物跡などが府中本町駅前の発掘調査で発見されたことを受け、対象の土地約7800㎡を約28億円で買い取ることを決めた。補正予算案を9月定例議会で提案した。今年度中に国史跡指定の武蔵国府跡として追加指定見込みという。
[参考:2010.9.22毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.16 武蔵国府関連遺跡 現場説明会 2010.5.15
 2010.5.11 府中本町駅前 古代武蔵国府の重要施設および家康の「府中御殿」の遺構が見つかる
 2008.7.30 岡谷市と東京・府中市で出土した平安の青銅鏡「八花鏡」 同じ工房で製作か

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大邱・符仁寺 初雕大蔵経奉安所とみられる建物跡を発掘

2010年08月25日 | Weblog
 高麗時代、初雕大蔵経(초조대장경)奉安所(봉안처)で有名な曹渓宗八公山符仁寺(팔공산 부인사)の文化遺跡発掘調査現場で奉安場所とみられる建物跡など5基が現れた。
 今回の発掘調査は、仏教文化財研究所発掘調査団が請け負い実施しており、1千400㎡の調査地域で現在9間まで確認され、東西に長く延びる側面1間の建物跡と南北上に形成された4間など、計5基の建物跡が発掘された。
 建物跡から瓦の破片を除いて陶磁器類がほとんど出土しなかったことからみて、建物跡は儀礼用など特殊な用途と見られるとしている。
[参考:聨合ニュース]

備考
 符印寺(夫人寺とも)は、創建年代と沿革に対して詳しく知られていないが、新羅27代善徳女王が創建した願刹として伝えられ、高麗玄宗~文宗の時に高麗初彫大蔵経を作ったことで知られている。この大蔵経は、モンゴル侵入の時大部分消失して、現在その一部が京都南禅寺に所蔵されている。




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田原本町秦庄・秦楽寺遺跡のミニ展示 古墳時代の玉工房跡の玉製品や中世の青白磁唐子草花文梅瓶など

2010年08月22日 | Weblog
 秦河勝(はたのかわかつ)が648年に創建したとされる秦楽寺(田原本町秦庄)の周辺にある「秦楽寺遺跡」の発掘調査成果を中心に紹介する平成22年度夏季ミニ展示「秦楽寺遺跡」が、唐古・鍵考古学ミュージアム(同町阪手233)で開かれている。(展示期間:8月7日~9月30日)
 同寺は、元亀元年(1570)武将・松永久秀(1510?-1577)に攻め落とされた。
 同展では、一昨年4月に、古墳時代中・後期(5世紀後半~6世紀前半)の琥珀や瑪瑙などを加工した玉造工房跡が見つかっており、それらの出土品など160点を展示する。
 ほかに、中国・南宋(1127~1279)の景徳鎮で作られた磁器「青白磁唐子草花文梅瓶(せいはくじからこそうかもんめいぴん)」(18の破片)も展示。
[参考:毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.4.17 田原本町秦庄・秦楽寺遺跡 古墳時代の玉作り工房跡
 2010.8.5 韓国・泰安馬島沖 高麗時代沈没船「馬島2号船」の調査、梅瓶を蜜壺として使用
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佐賀市・築地反射炉 鉄滓や大砲鋳型の粘土の破片が出土

2010年08月21日 | Weblog
2010.8.26
 専門家でつくる佐賀市重要産業遺跡調査指導委員会は25日、今月見つかった廃棄土坑について大量に出土した鉄くずの状態から、反射炉の廃棄土坑ではない可能性を指摘した。
 土坑から出土した鉄くずが木炭と混じった状態で見つかったため、反射炉では鉄と燃料が一緒にならないとして、在来の炉から出たものを捨てた場所との見方を示した。
 佐賀藩の反射炉では、原料の鉄を在来の炉で形を整えた後、反射炉に入れたという記録が残っており、その在来炉の廃棄土坑だったとの見方が強まったとする。
[参考:毎日新聞]

2010.8.20掲載分
 佐賀市教委は19日、佐賀藩が日本で初めて反射炉を築いて鉄製大砲を鋳造した「築地(ついじ)反射炉」があったとされる日新小学校(佐賀市長瀬町)の敷地から、鉄の鋳造に関連する「廃棄土坑」が出土し、磁器のほか大型の鉄滓(長さ1m、幅30~40cm)や高温に当たった跡がある大砲の鋳型とみられる粘土の破片、燃料の木炭などが確認されたと発表した。
 磁器は日本製の「端反椀(はそりわん)」と呼ばれ、縁が外に反った形状であることから、1820~1860年頃のものと考えられ、築地反射炉が設置されていた1850年代初頭と時期が重なっているという。
 現地説明会が22日の午前9時半、10時半、11時半に3回開かれる。
[参考:佐賀新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.1.9 築地反射炉 遺構推定地側から築造時期の耐火れんがや鉄くずが大量に出土
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安中市・人見地区の西横野東部・中部地区遺跡群 縄文中期後半の列石が見つかる

2010年08月20日 | Weblog
 安中市松井田町人見地区の西横野東部・中部地区遺跡群では、2006年ら市教委が発掘調査を続けており、このほど本年度、約2万㎡の調査分の現地説明会が両地区で開かれた。
 東部地区では、人の頭ほどの大きさの「列石」が、妙義山と浅間山を望む位置に弧状に並べられているのが見つかった。日没位置を計測して暦として使われたとみられる、縄文時代中期後半の貴重な遺跡という。同時期の敷石住居址も見つかった。
 中部地区では、土橋(どばし)が残る大溝も発見された。
 富岡市との境界には、古代の牧に関係したと思われる幅4mの溝も確認された。

 発掘当初から発見されている、古代の郡と郡を結ぶ幅約10mの「伝路」も、今回延伸が確認された。これまでの調査と合わせると一直線に延びる約2kmの道路状遺構が確認されたことになる。
 中部地区遺跡群に連なる富岡市妙義町上高田の熊野上遺跡では、今月22日午前10時から午後3時、現地説明会が開かれ、奈良時代の竪穴住居約50軒の集落や大溝などを見学できる。
[参考:東京新聞、富岡市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2008.9.21 安中市・人見地区の2遺跡 説明会100人出席
  古墳時代中期前半の竪穴住居跡130軒以上の拠点集落が出土

<熊野上遺跡map>


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出雲市・山持遺跡 弥生後期の布堀建物跡、柱に沈下防止の礎盤

2010年08月20日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが19日、出雲市西林木町の山持遺跡(ざんもちいせき)から弥生時代後期末(3世紀頃)と推定される建物跡2棟が見つかったと発表した。
 2棟はいずれも柱を立てるための細長い溝状の掘り込みを持つ布掘建物跡。
 1棟は柱間が梁行1間×桁行2間(2.5m×5.2m)で、直径は30cmの柱6本の柱根のほかに柱の沈下防止のために敷かれた木材(礎盤)も残っていた。県内で柱と沈下防止用の木材が一緒に確認されたのは珍しいという。
 もう一棟は、長さ約7.7mの、柱を立てるための掘り込みが2本平行して並ぶものだが、柱根は残っていなかった。
 周辺は地下水が多く、沈下防止策が必要だったとみられる。
 山持遺跡は弥生時代の集落跡。これまでにジョッキ型の容器や人物を描いた板絵などが出土している。 また、平成16年度の調査中に、弥生時代の川の中から「朝鮮系無文土器」の「勒島(ぬくと)式土器」そのもの、またはその影響を強く受けたとみられる土器が出土している。
 現地説明会は22日午前10時から開かれる。
[参考:産経新聞、島根県HP→島根県報道発表資料]



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京畿道坡州市龍尾里 高麗行宮・惠蔭院出土漆器に綿織物を確認

2010年08月19日 | Weblog
 韓白文化財研究院は、2008年京畿道坡州市廣灘面龍尾里(파주시 용미리)の高麗時代行宮の恵蔭院(혜음원)遺跡の建物跡北側水路底砂地層で収集された漆器(칠기)破片7点を分析して保存処理した結果、模様のゆがみを防ごうと松の木地に織物を覆った後、漆を塗った12世紀高麗時代の木心苧被漆器(목심저피칠기)が韓半島で初めて発見された。
 14世紀高麗末の文益漸(문익점、1331-1400)よりはるかに以前にも韓半島で綿織物を使ったという事例が再び度証明された。
 漆器は皿状で、復元品推定、口径16㎝前後に高さ4㎝ほど。このうち2点の漆器底面からX線撮影により「恵蔭」という墨文字も確認された。恵蔭院の略称であることが明らかな「恵蔭」は高麗時代に王が首都開京を離れて行宮した時に留まった、いわゆる王立ホテルに該当する宿舎である。
[参考:聨合ニュース]

過去のニュース・情報より
2010.7.15 陵山里寺跡出土遺物より、百済時代の綿織物を確認. 文益漸を800年遡る綿織物
 国立扶余博物館は7月15日、企画展示中である扶余・陵山里寺跡の出土遺物を整理分析する過程で、1999年陵山里寺跡第6次調査で収集した織物(幅2cm、長さ約12cm)が綿織物であることを確認したと発表した。
 高麗末14世紀後半に文益漸から始まったという韓国綿織(면직)の歴史が800年も遡るという。
 博物館は韓国伝統文化学校と共に走査型電子顕微鏡(SEM)を使用して、織物の縱斷面を観察した結果、綿糸を製織したことがわかった。
 この綿織物は陵山里寺跡の同じ層上で567年百済・昌王(威徳王、544-598)時製作したいわゆる「昌王銘舎利盒」製作年567年を考慮すると、文益漸より800年を遡る国内最古の綿織物と見ることができるとする。
[参考:聨合ニュース、ソウル新聞]
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香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 H22.8

2010年08月19日 | Weblog
H22.8.19
 昨日は、香川県善通寺市の「旧練兵場遺跡」に関するアクセス件数が少し目立ったので、何かなと思って探してみたが、見当たるところでは、読売新聞の「土器片発掘に歓声 善通寺(市の旧練兵場遺跡)で(地元の)小・中学生体験」のニュースのみ。
 吉野ヶ里遺跡(佐賀県)と同じ50ヘクタール(50万㎡)の規模の弥生時代の大集落跡であり、発掘調査が続けられ貴重な発見がされていながらニュースにはあまり採り上げられていないのが実情とみられる。
 香川県埋蔵文化財センターのホームページをみると、これまでの発掘調査の成果がまとめられてみることが出来るし、最近の発掘調査の状況も報告してくれている。今月7,8日は夕立で現場が水没し、呆然とたたずむ姿も登場している。水抜き作業で事なきを得たのか心配するところですが、いずれにしても、その10日後の18日に前述の発掘作業体験が行われたようです。

 香川県埋蔵文化財センターのホームページから旧練兵場遺跡の主な特徴と出土品などを項目的にまとめてみると、
①東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。
②弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
 今年の7月には、弥生時代の生活面を構成する土の中から、縄文時代後晩期の浅鉢とみられる土器が出土している。
③銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土している。
 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土している。
④弥生時代後期(約1,900年前)の鍛冶炉が見つかり、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土している。
 主に朝鮮半島から鉄素材の入手など遠距離交易・交流が必要となるため、本遺跡のような拠点的な集落を中心に鉄器生産が行われたとしている。
⑤讃岐の弥生土器の中に見慣れない土器が混じり、他地域産の土器が持ち込まれたものと、讃岐の土で他地域の土器の形を作ったものがある。これらの土器は九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られる器形をしている。弥生時代後期前半(約1,900年前)を中心とした時期に盛んに見られる。讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった集落であることを示している。
⑥把手付広片口皿の内面に朱が付いた状態を確認している。辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける器で、本遺跡で朱を使用したことを裏付ける。辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として挙げられ、同時代の巨大な墳丘墓である楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測でき、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートの存在が浮かび上がって来る。
⑦勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土している。 材料には硬玉、碧玉、水晶、ガラスなどが使われている。
 県内では産出しない材料を使用していることや、遺跡内から製作道具が出土していないことから、県外から持ち込まれた可能性が高いとし、他地域との交流が積極的に行われた結果を反映している。特に、弥生時代後期から終末にかけての竪穴住居跡で出土している。また、特定な分布傾向を示し、本来、装身具や威儀具であった玉が、共通の祭祀を有する集団が遺跡内に複数存在したことを示唆している。
⑧主な遺構には、竪穴住居跡と高床倉庫跡がある。
 遺跡が継続する約500年の間、竪穴住居跡の検出数は増加し、人口が増えていたことが分かる。
 一方、これまで調査では、弥生時代後期後半(約1,900年前)以前には、遺跡内の各丘で高床倉庫を建て物資を蓄えていたとみられるが、以後になると高床倉庫跡は検出されていない。 女王卑弥呼が活躍した弥生時代終末期(約1,800年前)になると、有力者が物資の管理を行う社会に変化し、どこにでも高床倉庫を建てることが許されなくなった可能性があるとし、当時の西日本各地が有力者を中心としたクニ社会へ移行しつつある姿を伝えているとみられるとしている。
[参考:2008.11.8 前出、香川県埋蔵文化センターHP]

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熊野古道のシンボル「牛馬童子像」 切断された頭部が見つかる

2010年08月18日 | Weblog
 2年前、熊野古道中辺路近く、世界遺産に登録されている熊野古道のシンボルとして親しまれている石像「牛馬童子像」の首から上が何者かにより切断されたが、田辺市教委などによると、16日同市鮎川のバス停ベンチに、牛馬童子の頭部そっくりの石の塊が置かれているのを近所の男性が見つけ、田辺署に通報し発見された。
 現状では、「牛馬童子像」は別の頭部がつけられ復元されているが、戻って来た頭部はどうするのか。
[参考:紀伊民法、読売新聞、産経新聞]

過去の県連ニュース・情報
 2008.6.19 熊野古道のシンボル「牛馬童子像」が切断される
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天理市・文化センター 大和古墳群にある前方後方墳7基を焦点にした文化財展が始まる

2010年08月18日 | Weblog
 天理市東南部の「大和(おおやまと)古墳群」にある前方後方墳に焦点を当てた、夏の文化財展「大和の前方後方墳―ノムギ古墳をはじまりとして―」が、きょう18日から、同市守目堂町の市文化センターで始まった。29日まで。
 最古級のノムギ古墳(3世紀末)をはじめ同古墳群を中心に市内の前方後方墳7基(ノムギ古墳、波多古塚古墳、下池山古墳、マバカ西古墳、フサギ塚古墳、星塚古墳、西山古墳)をパネル約20枚と遺物約90点で紹介する。ほかに埴輪などの出土品も展示される。
 開場時間は午前9時から午後5時まで。23日休館。入場無料。
[参考:奈良新聞、天理市HP]

過去の関連ニュース・資料
 2010.3.16 ノムギ古墳 後方部裾で花崗岩の礫が多数出土
 2010.2.23 ノムギ古墳 発掘調査を開始
 2009.6.14 桜井市・桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定
 2090.7.10 大阪府河南町・シシヨツカ古墳 銀象眼大刀柄頭が発見
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蔚山黄城洞・新石器前期の鯨骨と矢尻が出土 韓国捕鯨史上最古の遺物?

2010年08月18日 | Weblog
 韓国文物研究院は17日、8月に蔚山南区黄城洞(울산 남구 황성동)の蔚山新港湾埠頭連結道路敷地で新石器前期(紀元前6千~4千年)遺物層から、「鹿骨の矢尻が打ち込まれた鯨骨」2点を発見したと発表した。昌寧釜谷面飛鳳里遺跡の舟や櫂の出土と、盤龜臺岩刻畵(国宝第285号)と大谷里岩刻画の絵を照らし合わせてみても、当時の人々が、鯨猟を行っていた証とみている。
 1点は胸椎の部分で、ひげ鯨(수염고래)の一種の克鯨(귀신고래)で、2cmの矢尻が打ち込まれていた。もう1点は、肩甲骨の部分で、鯨の種類は不明で、4cmの矢尻が打ち込まれていた。矢尻はともに、鹿の前肢骨から作っていた。同じ遺物層から、骨矢尻6個が出土した。
 今回発見された遺物が、鯨の胸椎と肩甲骨という点から推測して、当時の人々が鯨の軟弱な首とヒレの部分を狙ったと考えることができる。 これは鯨の脆弱部位の首~肩部位に向かって骨矢尻を木に挿して作った銛(もり)を投げて捕鯨をしたという推定が可能となりそうだとしている。
[参考:聨合ニュース]
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慶南昌寧郡・飛鳳里貝塚遺跡 7千年前の最古の「櫂」が出土

2010年08月17日 | Weblog
 国立金海博物館は17日、昌寧・飛鳳里遺跡(창녕 비봉리 유적、史跡486号)に対する第2次発掘調査の結果、2貝塚(패총)で7千年前(注1)ぐらいに使ったとみられる新石器時代の「櫂(노)」1点を発掘したと発表した。
 2004年に本遺跡では、8千年前まで遡る新石器時代早期の舟2隻が発掘されている。今回の櫂の出土地点は、1次調査で舟が発掘された地点とは東北側に僅か約9mしか離れていないという。
 2貝塚は、隆起文土器と細沈線文土器が主に出土することからみて、新石器時代早期でも後半期の年代と推定される。
 櫂の全長は181㎝で、柄(66㎝)と水掻き(115㎝)がほとんど完全な形態で残っている。 柄と水掻きは幅が各々最大4.5㎝と9㎝であり、両側先の部分が共に尖っている。
[参考:聨合ニュース]

(注1) 日本最古の丸木舟の櫂は、石川県七尾市の三引遺跡(貝塚)出土で6000年前のもの。
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高松市・高松城下 貯水池「亀井戸」の遺構を確認

2010年08月17日 | Weblog
 高松市教委は、同市鍛治屋町の再開発用地で、初代高松藩主(注1)松平頼重が建設したとされる貯水池「亀井戸」の石を積み上げた遺構が出土したと発表した。江戸時代の「高松城下図屏風」(注1)や天保年間(1830~44年)の古地図に描かれ、跡地に水神社が建立されている亀井戸の存在を裏付ける貴重な遺構とする。
 当時の上水道技術を知る手がかりになるともしている。
 現地説明会は22日午後1時から開かれる。20日までに市教委文化財課への申し込みが必要。
[参考:読売新聞]

(注1) 高松藩は、生駒親正(1526?-1603)が、豊臣秀吉より讃岐1国の17万3000石を与えられたことに始まる。第4代藩主・生駒高俊の時、寛永17年(1640)にお家騒動により改易され、出羽矢島藩に転封された。
 寛永18年(1641)西讃地域に肥後富岡藩より山崎家治が5万3千石で入封し、丸亀藩が興った。
 寛永19年(1642)東讃地域に常陸下館藩より水戸徳川家初代藩主徳川頼房の長男・松平頼重(1622-1695、藩主1642-1673)徳川光圀の兄)が12万石で入封し、高松藩が再興された。次の藩主は徳川光圀の実子・松平頼常。
(注2) 紙本著色高松城下図八曲屏風(県指定): 高松市では1670年頃(寛文年間)のものとしている。


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奈良市・元興寺極楽坊禅室(国宝) 586年頃に伐採されたヒノキを使用

2010年08月16日 | Weblog
(写真は、昨年6~8月に東京都江戸博物館にて開催された「発掘された日本列島2009」に展示された、元興寺極楽坊本堂に使われていた古材「巻斗(まきと)」。その時の展示パネルには、「年輪年代測定法で計測した結果、568年から数十年以内に伐採されたことが確認された。」と記されていた。すなわち、1400年前の建築材である。)

 奈良市中院町の元興寺(がんごうじ)極楽坊の禅室(国宝)に、飛鳥時代初期586年頃に伐採されたヒノキが使われていることが、総合地球環境学研究所(京都市)の光谷拓実客員教授(年輪年代学)の調査でわかった。
 禅室(東西26.8m、南北12.8m、高さ8.4m)は細長い木造平屋建てで、「僧坊」として使われ後世には修行の場を兼ねた。
 光谷教授は奈良文化財研究所在職時代の2000年に、終戦前後の修理で禅室から取り外された部材の年輪を調査し、582年ごろの伐採を示す部材を見つけた。現在使われている部材にも同時代のものがあるとみて、07年にデジタルカメラで屋根裏の部材の年輪などを撮影した。年輪年代法に基づき画像をコンピューター解析した結果、柱の頂部を繋ぐ水平材「頭貫(かしらぬき)」で、最も外側の年輪が586年を示した。
 元興寺は飛鳥寺(法興寺、奈良県明日香村)を前身とし、710年の平城遷都に伴って718年に平城京内に移された。これまで同じ禅室の588年頃伐採のヒノキ部材が国内最古とされていた。
 飛鳥寺(法興寺)は、588年に造り始めたとされ、590年に用材を伐採したことが日本書紀(注1)に記されている。
 これらより、飛鳥寺の部材が禅室に再利用されたとみられる。
[参考:2010.8.14朝日新聞、2010.8.15毎日新聞]

(注1) 日本書紀より
崇峻元年(588) 是年、(略)、壊飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺。
崇峻3年(590) 冬十月、入山取寺材。
崇峻5年(592) 冬十月、起大法興寺佛堂興歩廊。
推古元年(593) 春正月(略)、以佛舎利、置于法興寺刹柱礎中。
推古四年(596) 冬十一月、法興寺造竟。
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