歴歩

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京畿道坡州市龍尾里 高麗行宮・惠蔭院出土漆器に綿織物を確認

2010年08月19日 | Weblog
 韓白文化財研究院は、2008年京畿道坡州市廣灘面龍尾里(파주시 용미리)の高麗時代行宮の恵蔭院(혜음원)遺跡の建物跡北側水路底砂地層で収集された漆器(칠기)破片7点を分析して保存処理した結果、模様のゆがみを防ごうと松の木地に織物を覆った後、漆を塗った12世紀高麗時代の木心苧被漆器(목심저피칠기)が韓半島で初めて発見された。
 14世紀高麗末の文益漸(문익점、1331-1400)よりはるかに以前にも韓半島で綿織物を使ったという事例が再び度証明された。
 漆器は皿状で、復元品推定、口径16㎝前後に高さ4㎝ほど。このうち2点の漆器底面からX線撮影により「恵蔭」という墨文字も確認された。恵蔭院の略称であることが明らかな「恵蔭」は高麗時代に王が首都開京を離れて行宮した時に留まった、いわゆる王立ホテルに該当する宿舎である。
[参考:聨合ニュース]

過去のニュース・情報より
2010.7.15 陵山里寺跡出土遺物より、百済時代の綿織物を確認. 文益漸を800年遡る綿織物
 国立扶余博物館は7月15日、企画展示中である扶余・陵山里寺跡の出土遺物を整理分析する過程で、1999年陵山里寺跡第6次調査で収集した織物(幅2cm、長さ約12cm)が綿織物であることを確認したと発表した。
 高麗末14世紀後半に文益漸から始まったという韓国綿織(면직)の歴史が800年も遡るという。
 博物館は韓国伝統文化学校と共に走査型電子顕微鏡(SEM)を使用して、織物の縱斷面を観察した結果、綿糸を製織したことがわかった。
 この綿織物は陵山里寺跡の同じ層上で567年百済・昌王(威徳王、544-598)時製作したいわゆる「昌王銘舎利盒」製作年567年を考慮すると、文益漸より800年を遡る国内最古の綿織物と見ることができるとする。
[参考:聨合ニュース、ソウル新聞]
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香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 H22.8

2010年08月19日 | Weblog
H22.8.19
 昨日は、香川県善通寺市の「旧練兵場遺跡」に関するアクセス件数が少し目立ったので、何かなと思って探してみたが、見当たるところでは、読売新聞の「土器片発掘に歓声 善通寺(市の旧練兵場遺跡)で(地元の)小・中学生体験」のニュースのみ。
 吉野ヶ里遺跡(佐賀県)と同じ50ヘクタール(50万㎡)の規模の弥生時代の大集落跡であり、発掘調査が続けられ貴重な発見がされていながらニュースにはあまり採り上げられていないのが実情とみられる。
 香川県埋蔵文化財センターのホームページをみると、これまでの発掘調査の成果がまとめられてみることが出来るし、最近の発掘調査の状況も報告してくれている。今月7,8日は夕立で現場が水没し、呆然とたたずむ姿も登場している。水抜き作業で事なきを得たのか心配するところですが、いずれにしても、その10日後の18日に前述の発掘作業体験が行われたようです。

 香川県埋蔵文化財センターのホームページから旧練兵場遺跡の主な特徴と出土品などを項目的にまとめてみると、
①東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。
②弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
 今年の7月には、弥生時代の生活面を構成する土の中から、縄文時代後晩期の浅鉢とみられる土器が出土している。
③銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土している。
 青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土している。
④弥生時代後期(約1,900年前)の鍛冶炉が見つかり、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土している。
 主に朝鮮半島から鉄素材の入手など遠距離交易・交流が必要となるため、本遺跡のような拠点的な集落を中心に鉄器生産が行われたとしている。
⑤讃岐の弥生土器の中に見慣れない土器が混じり、他地域産の土器が持ち込まれたものと、讃岐の土で他地域の土器の形を作ったものがある。これらの土器は九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られる器形をしている。弥生時代後期前半(約1,900年前)を中心とした時期に盛んに見られる。讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった集落であることを示している。
⑥把手付広片口皿の内面に朱が付いた状態を確認している。辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける器で、本遺跡で朱を使用したことを裏付ける。辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として挙げられ、同時代の巨大な墳丘墓である楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測でき、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートの存在が浮かび上がって来る。
⑦勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土している。 材料には硬玉、碧玉、水晶、ガラスなどが使われている。
 県内では産出しない材料を使用していることや、遺跡内から製作道具が出土していないことから、県外から持ち込まれた可能性が高いとし、他地域との交流が積極的に行われた結果を反映している。特に、弥生時代後期から終末にかけての竪穴住居跡で出土している。また、特定な分布傾向を示し、本来、装身具や威儀具であった玉が、共通の祭祀を有する集団が遺跡内に複数存在したことを示唆している。
⑧主な遺構には、竪穴住居跡と高床倉庫跡がある。
 遺跡が継続する約500年の間、竪穴住居跡の検出数は増加し、人口が増えていたことが分かる。
 一方、これまで調査では、弥生時代後期後半(約1,900年前)以前には、遺跡内の各丘で高床倉庫を建て物資を蓄えていたとみられるが、以後になると高床倉庫跡は検出されていない。 女王卑弥呼が活躍した弥生時代終末期(約1,800年前)になると、有力者が物資の管理を行う社会に変化し、どこにでも高床倉庫を建てることが許されなくなった可能性があるとし、当時の西日本各地が有力者を中心としたクニ社会へ移行しつつある姿を伝えているとみられるとしている。
[参考:2008.11.8 前出、香川県埋蔵文化センターHP]

コメント (1)
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