歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

多気町・相可出張遺跡 飛鳥時代後期の「石組遺構」が出土

2010年08月25日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターは24日、多気町の相可高校敷地内で発掘調査を進めている相可出張(おうかでばり)遺跡で、飛鳥時代後期(約1300年前)の「石組遺構」が見つかったと発表した。
 地面に掘られた溝(幅8m、深さ2mほど)の底面や側面に、こぶし大から直径30cm位の自然石が使われ、石垣状の「石積」、斜面に並べた「石貼(いしばり)」、平らな面に「石敷」で出来ている。溝には水が流れていた湧水(ゆうすい)の形跡があり、禊(みそぎ)など水にかかわる祭祀に使われていたのだろうと推測する。
 今回発見された遺構のように自然石を並べる方式は、飛鳥時代以前の遺跡に見られるといい、近くの斎宮との関係が今後の研究課題とする。
 現場説明会が29日(日)午前10時から午後3時まで行われる。
[参考:中日新聞、朝日新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2010.7.2 多気町・相可出張遺跡 鎌倉時代の鍋が墓の副葬品として出土


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韓国 1926~1931年当時の京都帝国大学建築学教室助手・能勢丑三の行跡

2010年08月25日 | Weblog
 聨合ニュースでは25日、1926年当時、京都帝国大学工学部建築学教室助手であった能勢丑三(のせ うしぞう)について、9点の写真とともにかなりの量の記事が書かれていた。
 冒頭は、1926年に朝鮮総督府が発掘調査した新羅時代の積石木槨墳「瑞鳳塚(서봉총)」(慶州市路西洞)の名前の由来の話。その年に発掘現場を訪れたスウェーデン(漢字表記:瑞典)のグスタフ アドルフ皇太子と出土した金冠の鳳凰飾りから一字ずつ漢字をとって名づけたという。皇太子を現場まで案内したのは、当時、京都帝国大学総長・濱田耕作(青陵)(考古学者)、そして、随行団の一員として同大学工学部建築学教室助手・能勢丑三がいた。ここで、就実大学大学院(岡山)賈鍾寿・教授が整理した能勢丑三の略歴が文章にて紹介されている。

1889年8月17日 京都市で生まれる。
 京都市立美術工芸学校図案科と京都高等工芸学校図案科を卒業。建築設計事務所に勤務。
1923年 京都帝国大学工学部建築学教室助手に就職。ここで古代建築研究に没頭し、その後、同大学考古学教室に配属されたりもした。
1926年 前述の慶州訪問を契機に朝鮮の文化遺産に魅了される。 1926~1931年まで全10回にかけて、父親から受け継いだ莫大な財産を元手に私費まで叩いて、朝鮮各地をくまなく探し、遺跡見学と発掘)調査、そして文化財復元を行う。
 彼の全般的な業績は、これというほどのものが学界では整理されていないが、韓国では十二支像(십이지상)の重要性を最も早く感知して先駆的な業績を上げたとしている。また、単純な見学に満足しないで関連遺跡に対する発掘調査も併行した。
1928年 慶州遠源寺(원원사)址を現地調査し、一方、皇福寺址で石塔基壇場所を発掘調査した。 また、開城の高麗王陵の調査も併行した。
1929年 高麗王陵と華厳寺西塔を調査し、遠源寺址の発掘を開始する。
1930年 遠源寺址を実測調査して、成徳王陵をはじめとする慶州地域新羅時代王陵の十二支像を調査するなど、1931年末まで朝鮮での文化財調査行跡を継続する。
1931年 遠源寺址三層石塔(雙塔)を復元した。

 賈教授は、彼が残した韓国文化財関連各種写真が現在、奈良市の文化財専門写真会社・飛鳥園に約2千500枚に達するガラス乾板で未整理のまま残っているとし、このような能勢丑三の資料に対して、韓国政府サイドの調査と整理が必要だとしている。
 賈教授は、最近発刊された季刊「韓国の考古学」夏号を通して、上記のことをまとめ紹介した。
[参考:聨合ニュース]


備考: その後の能勢丑三簡単な略年譜
1932年 文学部に異動し、考古学教室勤務を命じる。
1938年 京都大学文学部を依願退職。 その前後より、石塔の調査研究を行う。
1947年 京都師範学校講師。日本考古学を教える。
1953年 大阪市立大学文学部講師。考古学研究法を教える。
1954年 歿す。(享年66才。)
[参考:考古学京都学派・角田文衛編より「能勢丑三略伝」/角田文衛 (1994 雄山閤出版)]

備考:KBSニュースでは、11枚の写真を公開している。


追記 2017.2.2
 2017.1.31朝鮮日報は、「90년 전 일본 학자가 찍은 경주 발굴 사진 700장 공개(90年前、日本学者が撮った慶州発掘写真700枚公開)」と題して、
慶州学硏究院は1920~1930年代日本人建築、考古学者・能勢丑三(1889~1954)が慶州一帯を発掘調査して撮った写真と図面700枚余りを30日、本紙に公開したと発表した。
 写真は飛鳥園にガラス乾板状態で未整理のまま保管されていたものである。
 能勢丑三は新羅遺跡見れば感激するので現地の人々からは「感激先生(감격선생)」と呼ばれていたそうである。
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府中本町・武蔵国府関連遺跡 国司赴任開始以前の「国宰の館」遺構か

2010年08月25日 | Weblog
(写真は府中本町駅の裏側に当たる。遺跡からは西側部分になる。右側が北方向、左側が南方向となる。2010.5撮影)

 読売新聞夕刊およびインターネット・ニュースで、府中市の「武蔵国府関連遺跡」で見つかった建物跡が、大和朝廷が大宝律令(701年)に基づいて国司を送る以前の7世紀に、中央から派遣された国宰(くにのみこともち)が政務を行った場所である可能性が高いことが25日、わかったと報じている。全国で国宰の館とみられる遺構が見つかるのは初めてという。
 今回、これまでに見つかった建物群の西側(注1)の穴から7世紀末頃の特徴を持つ皿などの土器が多数見つかった。建物配置が東西南北に軸をそろえて配置され、格式の高い場だったことをうかがわせる一方、完全な左右対称になっていない(注2)ことなどから、国府の形式が整う以前から使われていた可能性が高いとするとのこと。
[参考:読売新聞]

(注1) 建物群の西側の穴といっても、位置がどの辺りかわからない。写真は建物群の西側部分に当たり、右が北方向、左が南方向になる。右側は今年の5月の現説では、ブルー・シートで覆われていた。
(注2) 建物の配置が完全な左右対称になっていないとするが、今年の5月の現説では、脇殿(東)が府中街道にあるかもしれない。そうなれば、左右対称に近くなると説明を受けた。

「国宰の館」遺構か…中央から派遣され政務(読売新聞) - goo ニュース

2010.9.23追記 
「武蔵国府関連遺跡」/府中本町駅前発掘対象の土地買取へ
 府中市は、7世紀末から8世紀前半に存続した迎賓館的な機能を備えた国司館跡、徳川家康が建てた「府中御殿」とみられる建物跡などが府中本町駅前の発掘調査で発見されたことを受け、対象の土地約7800㎡を約28億円で買い取ることを決めた。補正予算案を9月定例議会で提案した。今年度中に国史跡指定の武蔵国府跡として追加指定見込みという。
[参考:2010.9.22毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.5.16 武蔵国府関連遺跡 現場説明会 2010.5.15
 2010.5.11 府中本町駅前 古代武蔵国府の重要施設および家康の「府中御殿」の遺構が見つかる
 2008.7.30 岡谷市と東京・府中市で出土した平安の青銅鏡「八花鏡」 同じ工房で製作か

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大邱・符仁寺 初雕大蔵経奉安所とみられる建物跡を発掘

2010年08月25日 | Weblog
 高麗時代、初雕大蔵経(초조대장경)奉安所(봉안처)で有名な曹渓宗八公山符仁寺(팔공산 부인사)の文化遺跡発掘調査現場で奉安場所とみられる建物跡など5基が現れた。
 今回の発掘調査は、仏教文化財研究所発掘調査団が請け負い実施しており、1千400㎡の調査地域で現在9間まで確認され、東西に長く延びる側面1間の建物跡と南北上に形成された4間など、計5基の建物跡が発掘された。
 建物跡から瓦の破片を除いて陶磁器類がほとんど出土しなかったことからみて、建物跡は儀礼用など特殊な用途と見られるとしている。
[参考:聨合ニュース]

備考
 符印寺(夫人寺とも)は、創建年代と沿革に対して詳しく知られていないが、新羅27代善徳女王が創建した願刹として伝えられ、高麗玄宗~文宗の時に高麗初彫大蔵経を作ったことで知られている。この大蔵経は、モンゴル侵入の時大部分消失して、現在その一部が京都南禅寺に所蔵されている。




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