2.26事件の反乱軍の中心的人物であった安藤輝三大尉は、
宇都宮中学に在学していました。
旧制中学の後身の高校を卒業した僕にとっては、
大先輩にあたる訳です。
安藤大尉は、父親が中学の英語の教師で、
大正6年に第二鹿児島中学から転勤になった関係で、
宇都宮中学に転入します。
なお、父親の安藤栄次郎は、
その後慶応義塾の舎監になります。
安藤大尉は、中学2年の時に
陸軍の仙台幼年学校の試験に合格したため、
中途退学します。
そのため、卒業者名簿には載っていませんが、
高校に残る「半途退学者名簿」には載っているとのことです。
幼年学校から陸軍士官学校と言う、
戦前のエリートコースを歩んだ安藤大尉は、
昭和10年に歩兵第三連隊の中隊長となり、
当時の青年将校の指導的な役割を果たします。
反乱当日、安藤大尉は、鈴木貫太郎侍従長宅を襲撃し、
銃撃した後、止めをさそうとしますが、
侍従長の夫人に懇願され、止めはささず、
このため鈴木侍従長は一命を取りとめます。
2月29日に、有名な「兵に告ぐ」が出され、
安藤大尉はピストルで自決しようとしますが、
叶いませんでした。
しかしながら、その後の軍法会議において
死刑の判決が下り、刑死しました。
反乱軍は、首相官邸も襲撃しますが、
当時の首相秘書官、松尾伝蔵大佐が岡田首相に似ていたため、
誤って射殺され、岡田首相は難を逃れます。
この、松尾大佐は、大正8年から、
宇都宮の歩兵59連隊の連隊長をしていた人物です。
大正年間に宇都宮に住んだ人物が、
2・26事件の時には、加害者と被害者に別れてしまった訳です。
この2・26事件には、僕の父親も参加しました。
当時、宇都宮にあった第14師団の騎兵第18連隊にいた親父にも
出動命令が下り、東京まで出掛けたそうです。
どの方面だったのか、生前聞いておけば良かったと思いますが、
今は聞く事ができません。
本文は、高校の同窓会誌に載っていた、
元栃木県知事渡辺文雄さんの文章を参考にさせて頂きました。
宇都宮中学に在学していました。
旧制中学の後身の高校を卒業した僕にとっては、
大先輩にあたる訳です。
安藤大尉は、父親が中学の英語の教師で、
大正6年に第二鹿児島中学から転勤になった関係で、
宇都宮中学に転入します。
なお、父親の安藤栄次郎は、
その後慶応義塾の舎監になります。
安藤大尉は、中学2年の時に
陸軍の仙台幼年学校の試験に合格したため、
中途退学します。
そのため、卒業者名簿には載っていませんが、
高校に残る「半途退学者名簿」には載っているとのことです。
幼年学校から陸軍士官学校と言う、
戦前のエリートコースを歩んだ安藤大尉は、
昭和10年に歩兵第三連隊の中隊長となり、
当時の青年将校の指導的な役割を果たします。
反乱当日、安藤大尉は、鈴木貫太郎侍従長宅を襲撃し、
銃撃した後、止めをさそうとしますが、
侍従長の夫人に懇願され、止めはささず、
このため鈴木侍従長は一命を取りとめます。
2月29日に、有名な「兵に告ぐ」が出され、
安藤大尉はピストルで自決しようとしますが、
叶いませんでした。
しかしながら、その後の軍法会議において
死刑の判決が下り、刑死しました。
反乱軍は、首相官邸も襲撃しますが、
当時の首相秘書官、松尾伝蔵大佐が岡田首相に似ていたため、
誤って射殺され、岡田首相は難を逃れます。
この、松尾大佐は、大正8年から、
宇都宮の歩兵59連隊の連隊長をしていた人物です。
大正年間に宇都宮に住んだ人物が、
2・26事件の時には、加害者と被害者に別れてしまった訳です。
この2・26事件には、僕の父親も参加しました。
当時、宇都宮にあった第14師団の騎兵第18連隊にいた親父にも
出動命令が下り、東京まで出掛けたそうです。
どの方面だったのか、生前聞いておけば良かったと思いますが、
今は聞く事ができません。
本文は、高校の同窓会誌に載っていた、
元栃木県知事渡辺文雄さんの文章を参考にさせて頂きました。
その駆け足をおそわった事がありますが、早くて疲れないのですが。関東軍演習は凄まじかったらしく、その経験者の父は内地ならどうって事ないと言ってました。
因みに義兄が宇高です。
昔の軍人さん達の体力は凄かったのでしょうね。
そのような事を、やはり伝える事も大切な事のような気がします。
これからも宜しくお願いいたします。