天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

イスラームの礼拝

2009-03-23 | Weblog
 イラクの情勢は依然として混沌としています。
 イラクは言うまでもなく、イスラーム教の国です。
 そのイスラームの内容について、
 僕達はどこまで知っているのかと考えると、
 余り自信を持って答える事はできません。
 以前、片倉もとこさんの書かれた
 「イスラームの日常生活」を読んでみた事があります。

 その中に、礼拝について書いてありました。
 イスラーム教徒は、一日5回の礼拝サラートを行います。
 1回目は「ファルジ」で日の出の前に行います。
 2回目は「ズフル」と言われ、
 太陽が頭の真上にある時から
 自分の影が背の高さの2倍になるまでの間に行います。
 3回目は「アスル」で、ズフルの後、日没までの間に行います。
 4回目は「マグリブ」で、
 日没から夕焼けが消えるまでの間に行います。
 最後は「イシャー」で、就寝するまでの間に行います。

 この5回の礼拝は、
 メッカの方向を向いて行う事はよく知られています。
 イスラーム教徒がモスクなどで整然と礼拝を行う姿を
 映像で見ますが、
 どうも全員が同じペースで礼拝する方が異例のようで、
 個々人がそれぞれのペースで礼拝するのが本当のようです。

 この礼拝、イスラーム教徒の間では、
 生活の区切りとして行う人も多いらしく、
 一種の気分転換にもなるようです。
 イスラーム教徒のビジネスマンの間では、
 コーヒーブレイクよりは健康にも良いと言うことで、
 礼拝ブレイクを行う人もいるとの事です。

 もちろん、礼拝は気分転換に行うものでもなく、
 またお金が欲しいとか、健康でいたいとか
 神様に自分の希望を叶えてもらえるよう
 祈るものではありません。
 何かのために祈るのではなく、
 礼拝そのものために祈るのだそうです。
 仕事よりも礼拝の方が重要であると考えるのが、
 イスラーム教徒であり、
 礼拝の場所は飛行場や工場、スーパーマーケットなど
 いたる所に備えられています。

 こうした、イスラーム教独特の考え方を理解しない限り、
 イスラーム世界との争いは
 絶えないのではないかと思います。
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日本の死刑

2009-03-09 | Weblog
 現在の日本の死刑制度を巡っては、
 その存廃が議論されています。
 各先進国が廃止の方向なのに対して、
 現在まで我が国では継続論の方が優勢な状況だと思います。

 この議論の時に、よく引き合いに出されるのが、
 平安時代の340年余りの間、
 日本には死刑に処せられた人がいなかったと言う事実です。
 西暦810年(大同5年)、
 時の嵯峨天皇と平城上皇との間の争いである薬子の変が起こり、
 その首謀者として藤原仲成が処刑されます。
 これ以降、しばらく死刑はありませんでした。

 西暦1156年(保元元年)、
 時の後白河天皇と崇徳上皇との間で争いが起こります。
 いわゆる保元の乱ですが、
 これは単に朝廷内部の争いに止まらず、
 藤原家、源氏と平家それぞれの肉親が
 複雑に入り組んで起きた争乱事件です。
 この結果は、後白河天皇側の勝利によって終了しますが、
 その際、上皇側に付いた、源為義、平忠正が処刑されます。
 やはり、武士が政治に関わるようになり、
 血生臭くなったのでしょうか?

 いずれにしても、この2つの事件の346年の間、
 死刑はなかったとのことです。
 この間には、例えば菅原道真が太宰府に流されたりしますが、
 死刑にはなっていません。
 平将門や藤原純友の乱なども起こり、
 それぞれ鎮圧されてしまいますが、
 戦いの中で戦死してしまい、
 死刑が宣告された訳ではありません。

 何故、このような長い年月の間、
 死刑が執行されなかったのか?
 色々説もあるようですが、
 特にこの時代の人々が生命尊重の考えを持っていた訳ではなく、
 処刑することによって、
 怨霊となって祟られると言う事を恐れたのだと思います。

 また、当時は荘園制の時代です。
 荘園内部では、私的な処刑が行われたのかも知れません。
 しかしながら、その理由は何であれ、
 世界史的に考えた場合、血生臭い史実の多い中世において、
 このような国は外に類例がないのではないかと思います。
 こうした史実について、誇らしく思っても良いのだと思います。
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