天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

元老院議員になった馬

2015-09-20 | Weblog
 元老院は、古代ローマ制の共和制の時代から、
 国の統治機関となっていました。
 元老院議員は、過去に会計検査官を務めた人物を対象に、
 財務官が検討した上で決められていましたが、
 10年の兵役の義務などもあり、
 いわば古代ローマのエリート集団でした。
 帝政時代に入り、その地位は低下しましたが、
 それでも五賢帝時代までは、「元首」である皇帝の正統性、
 後継者を承認する機関として重要であり、
 皇帝の発した勅令も恒久法制化するには
 元老院の議決を必要としていました。

 この元老院の議員に、自分の愛馬を任命してしまった皇帝がいます。
 ローマ帝国第3代皇帝カリグラがその人です。
 カリグラは、ティベリウス帝の後を継いで、
 24歳の時に皇帝に就任しますが、
 就任当初は、民衆の絶大な人気がありました。
 ティベリウス帝が吝嗇で、莫大な財産をため込んでいたのに対し、
 カリグラは、兵士達に賞与を支給するなど、
 その財産を湯水のように使ったためでした。
 
 カリグラは、大の馬好きで、インキタトゥスと言う馬を寵愛していました。
 インキタトゥスとは、ラテン語で「速い」を意味します。
 馬具には宝石をちりばめ、紫色の寝具、
 飼い葉桶には金箔を混ぜたエン麦が入り、
 さらに大理石の大邸宅を建造し、18人の召使まで与えたと伝えられています。
 時にはこの馬の名前で高官を招待することもあったとの事です。
 そして、このインキタトゥスに元老院の議員の職を与えています。
 インキタトゥスは人語を解し、カリグラはいつか執政官にすることを
 この馬と約束していたとも伝えられています。

 39年にはナポリ湾の中に3kmに渡って船2艘を並べ、
 その上を橋のように板を渡して遊んだようです。
 カリグラは、アレクサンダー大王の墓から盗んで来た、甲冑の胸当てをして、
 インキタトゥスに騎乗し、2マイルほど疾走しました。

 こうして放蕩の限りをしたカリグラですが、
 在位4年で、元老院とも共謀した親衛隊将校によって暗殺され、
 29歳の生涯を閉じました。
 インキタトゥスがどうなったのかは分かりません。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

殿様の養子事情

2015-09-07 | Weblog
 江戸時代、各藩は家の継続を図るため、跡継ぎがない場合には、
 どこかの大名の次男・三男などを養子に迎えていました。
 お家断絶ともなると多くの家臣団などが失業しますので、
 これは当然の事でした。

 下野国に黒羽藩と言う小藩がありました。
 石高18,000石ですが、古くからこの地方を治めた那須氏の家臣でした。
 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、主家を見限って秀吉側に付き、
 更に関ヶ原の戦いの際には、東軍に付いて戦後本領を安堵されます。

 1811年(文化8年)、第10代藩主・大関増陽の養嗣子として
 伊予国大洲藩主・加藤泰衑の八男加藤舎人、後の泰周を迎え、
 大関増業(おおぜき ますなり)として、第11代藩主とします。

 このとき養父・増陽は28歳、それに対して養子の増業は31歳と、
 養父子の関係にありながら
 年齢が逆であるという異例の養子縁組でした。
 このため、幕府に対する届けは、増業の年齢を偽って提出されています。

 何故、このような無理な養子縁組が行われたのか興味を感じますが、
 どうやら黒羽藩の財政事情が関係しているようです。
 養子縁組の際には持参金が加藤家から支払われますが、
 この時の持参金は2000両で、これが目当てだったようです。
 しかも、増業が在任中、持参金の外に、
 加藤家からの資金援助を受けていた形跡があります。
 藩の財政再建のため、自分の子どもがいるのに、
 養子縁組をした所もあったようです。

 江戸時代で養子縁組から藩主になった人は、
 本来は藩主になれなかった生まれなのに、藩主の地位に就いた事や、
 優秀な人が多かった事から、領地の運営に熱心に取り組みます。
 増業も、藩政改革に取り組みます。
 厳しい倹約令を出して経費節減に努めた外、
 藩の商人から多額の金を借用し、これにより、
 換金性の高い煙草や木綿、胡麻、蕎麦、麻などの農産物の栽培と
 那珂川水運の整備、及び治水工事などを行おうとします。
 しかし、川の水運工事に対して家臣団が猛反対し、
 1824年(文政7年)に増業に隠居を迫りました。
 養子として入った増業には味方が無く、同年のうちに家督を、
 先代・増陽の次男大関増儀に譲って隠居することを余儀なくされます。

 その後、増業は水戸藩の徳川斉昭や松代藩の真田幸貫ら
 江戸時代後期の名君と呼ばれる面々と交流しながら、
 学問に熱中しました。
 元々学問好きだったため、藩主時代に記した『創垂可継』をはじめ、
 隠居時代においても医学書の『乗化亭奇方』や
 後世において科学史・技術史書として評価された
 故実書の『止戈枢要』など、
 多くのジャンルに及ぶ著作を行ない、
 1845年(弘化2年)、65歳で死去しました。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする