陸上競技の中で、かつて日本人が得意としていた種目があります。
それが、三段跳びです。
オリンピックの3大会連続して日本人が金メダルを取っています。
1928年の第9回のアムステルダムオリンピックで、
日本人最初の金メダルを獲得したのが織田幹雄さんでした。
織田さんは、広島県出身ですが、
広島一中時代に1924年のパリオリンピックに出場し、
三段跳びで6位入賞を果たします。
早稲田大学に進んだ後、
アムステルダムオリンピックの選手団の主将を務め、
金メダルを獲得しました。
その時の記録が15m21cmでした。
その後、1931年に三段跳びの世界記録15m58cmを樹立します。
この記録を記念して、
東京オリンピックのメイン会場となった国立競技場には、
15m58cmの高さのポールが立っています。
織田さんは、その後早稲田大学の教授などを勤め、
1988年に文化功労者となり、1998年亡くなります。
享年93歳でした。
1932年の第10回のロサンゼルスオリンピックでは、
南部忠平さんが金メダルを獲得します。
南部さんは、織田さんの1歳年上で、
早稲田大学の学生の時に
アムステルダムオリンピックの三段跳びに参加しますが、
4位でした。
1929年走り幅跳びで、7.98mの世界記録を樹立し、
ロサンゼルスオリンピックでは、15m72cmの世界新記録で、
三段跳びの金メダルを獲得します。
この大会では、走り幅跳びでも銅メダルを獲得しました。
1997年に亡くなりますが、享年は織田さんと同じく93歳でした。
1936年の第11回のベルリンオリンピックでは、
田島直人さんが金メダルを獲得しました。
田島さんは、ロサンゼルスオリンピックで走り幅跳び6位に入賞します。
京都大学卒業後、ベルリンオリンピックに出場し、
三段跳びで、16m00cmの世界新記録で金メダルを獲得しました。
また、走り幅跳びでは、銅メダルを獲得します。
ベルリンオリンピックの記録映画を撮ったレニ・リーフェンシュタールは
「あなたの三段跳は跳躍ではなく飛躍」と絶賛しました。
田島さんが金メダルの副賞としてもらったオークの苗は、
京都大学の構内に植えられ、現在では20mを超える樹となって、
「オリンピックオーク」と呼ばれているそうです。
1990年、73歳で亡くなります。
現在の三跳びの世界記録は、
ジョナサン・エドワードが1995年に出した、18m29cmです。
それが、三段跳びです。
オリンピックの3大会連続して日本人が金メダルを取っています。
1928年の第9回のアムステルダムオリンピックで、
日本人最初の金メダルを獲得したのが織田幹雄さんでした。
織田さんは、広島県出身ですが、
広島一中時代に1924年のパリオリンピックに出場し、
三段跳びで6位入賞を果たします。
早稲田大学に進んだ後、
アムステルダムオリンピックの選手団の主将を務め、
金メダルを獲得しました。
その時の記録が15m21cmでした。
その後、1931年に三段跳びの世界記録15m58cmを樹立します。
この記録を記念して、
東京オリンピックのメイン会場となった国立競技場には、
15m58cmの高さのポールが立っています。
織田さんは、その後早稲田大学の教授などを勤め、
1988年に文化功労者となり、1998年亡くなります。
享年93歳でした。
1932年の第10回のロサンゼルスオリンピックでは、
南部忠平さんが金メダルを獲得します。
南部さんは、織田さんの1歳年上で、
早稲田大学の学生の時に
アムステルダムオリンピックの三段跳びに参加しますが、
4位でした。
1929年走り幅跳びで、7.98mの世界記録を樹立し、
ロサンゼルスオリンピックでは、15m72cmの世界新記録で、
三段跳びの金メダルを獲得します。
この大会では、走り幅跳びでも銅メダルを獲得しました。
1997年に亡くなりますが、享年は織田さんと同じく93歳でした。
1936年の第11回のベルリンオリンピックでは、
田島直人さんが金メダルを獲得しました。
田島さんは、ロサンゼルスオリンピックで走り幅跳び6位に入賞します。
京都大学卒業後、ベルリンオリンピックに出場し、
三段跳びで、16m00cmの世界新記録で金メダルを獲得しました。
また、走り幅跳びでは、銅メダルを獲得します。
ベルリンオリンピックの記録映画を撮ったレニ・リーフェンシュタールは
「あなたの三段跳は跳躍ではなく飛躍」と絶賛しました。
田島さんが金メダルの副賞としてもらったオークの苗は、
京都大学の構内に植えられ、現在では20mを超える樹となって、
「オリンピックオーク」と呼ばれているそうです。
1990年、73歳で亡くなります。
現在の三跳びの世界記録は、
ジョナサン・エドワードが1995年に出した、18m29cmです。