明治の中頃の作家で、松原岩五郎と言う人がいました。
北海道の名山、「大雪山」の名付け親として知られています。
それまで「カムイ・ミンタラ」(神々が舞い遊ぶ庭)と呼ばれていた山を、
故郷の大山を思い起こし、
雪が多く積もるので「大雪山」と命名しました。
彼は、1866年(慶応2年)年6月8日、
鳥取県の西部、現在の淀江町に生まれます。
幼くして両親を失い長兄に引き取られますが、
家業の造り酒屋の仕事に酷使されたため、家を出奔します。
鳥取から大阪に向かう山の中で、山賊に出会いますが、
一文も持っていなかったため、
かえって同情され、握り飯を2個貰ったと言う話があります。
大阪で底辺労働をしながら東京に出て、一時慶応義塾で学びます。
その頃、徳富蘇峰の主宰する「国民新聞」の中村楽天と知り合い、
同紙に投稿するようになります。
1892年(明治25年)当時の日本は、最初の資本主義恐慌を経験し、
社会中に浮浪者など生活困窮者が満ち溢れていました。
こうした中、「朝野新聞」や「時事新報」などの反体制的な新聞が、
スラム街の探訪記事を載せて、注目されていました。
新聞間の競争の中で、
松原は徳富の依頼を受け、東京のスラム街に潜入します。
松原としては、他紙に負けない内容とするため、
より果敢な突撃レポートにしようと、張り切ります。
時に、彼は25歳でした。
スラム街に潜入する前に、数日間の絶食の練習をしたり、
上野の山で浮浪者の群れに混じって、
野宿の練習をしたりと十分な準備を行います。
そして、スラム街に潜入し、様々な人々の様子を克明に記録します。
その成果を、「最暗黒の東京」として出版します。
その頃、やはりスラム街に潜入してルポルタージュを書いた、
桜田文吾の「貧天地飢寒屈探検記」と共に、
我が国初のノンフィクションの名著と言われています。
松原は、その後日清戦争の従軍記「征塵余録」や、
下層社会の職業について記した「社会百方面」などを著した後に、
博文館に入社し、雑誌の編集に従事します。
50歳で退職後は、借家を作って悠々自適の生活を送り、
1935年(昭和10年)70歳で死去しました。
北海道の名山、「大雪山」の名付け親として知られています。
それまで「カムイ・ミンタラ」(神々が舞い遊ぶ庭)と呼ばれていた山を、
故郷の大山を思い起こし、
雪が多く積もるので「大雪山」と命名しました。
彼は、1866年(慶応2年)年6月8日、
鳥取県の西部、現在の淀江町に生まれます。
幼くして両親を失い長兄に引き取られますが、
家業の造り酒屋の仕事に酷使されたため、家を出奔します。
鳥取から大阪に向かう山の中で、山賊に出会いますが、
一文も持っていなかったため、
かえって同情され、握り飯を2個貰ったと言う話があります。
大阪で底辺労働をしながら東京に出て、一時慶応義塾で学びます。
その頃、徳富蘇峰の主宰する「国民新聞」の中村楽天と知り合い、
同紙に投稿するようになります。
1892年(明治25年)当時の日本は、最初の資本主義恐慌を経験し、
社会中に浮浪者など生活困窮者が満ち溢れていました。
こうした中、「朝野新聞」や「時事新報」などの反体制的な新聞が、
スラム街の探訪記事を載せて、注目されていました。
新聞間の競争の中で、
松原は徳富の依頼を受け、東京のスラム街に潜入します。
松原としては、他紙に負けない内容とするため、
より果敢な突撃レポートにしようと、張り切ります。
時に、彼は25歳でした。
スラム街に潜入する前に、数日間の絶食の練習をしたり、
上野の山で浮浪者の群れに混じって、
野宿の練習をしたりと十分な準備を行います。
そして、スラム街に潜入し、様々な人々の様子を克明に記録します。
その成果を、「最暗黒の東京」として出版します。
その頃、やはりスラム街に潜入してルポルタージュを書いた、
桜田文吾の「貧天地飢寒屈探検記」と共に、
我が国初のノンフィクションの名著と言われています。
松原は、その後日清戦争の従軍記「征塵余録」や、
下層社会の職業について記した「社会百方面」などを著した後に、
博文館に入社し、雑誌の編集に従事します。
50歳で退職後は、借家を作って悠々自適の生活を送り、
1935年(昭和10年)70歳で死去しました。