天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

松原岩五郎

2011-07-25 | Weblog
 明治の中頃の作家で、松原岩五郎と言う人がいました。
 北海道の名山、「大雪山」の名付け親として知られています。
 それまで「カムイ・ミンタラ」(神々が舞い遊ぶ庭)と呼ばれていた山を、
 故郷の大山を思い起こし、
 雪が多く積もるので「大雪山」と命名しました。

 彼は、1866年(慶応2年)年6月8日、
 鳥取県の西部、現在の淀江町に生まれます。
 幼くして両親を失い長兄に引き取られますが、
 家業の造り酒屋の仕事に酷使されたため、家を出奔します。
 鳥取から大阪に向かう山の中で、山賊に出会いますが、
 一文も持っていなかったため、
 かえって同情され、握り飯を2個貰ったと言う話があります。

 大阪で底辺労働をしながら東京に出て、一時慶応義塾で学びます。
 その頃、徳富蘇峰の主宰する「国民新聞」の中村楽天と知り合い、
 同紙に投稿するようになります。
 1892年(明治25年)当時の日本は、最初の資本主義恐慌を経験し、
 社会中に浮浪者など生活困窮者が満ち溢れていました。
 こうした中、「朝野新聞」や「時事新報」などの反体制的な新聞が、
 スラム街の探訪記事を載せて、注目されていました。

 新聞間の競争の中で、
 松原は徳富の依頼を受け、東京のスラム街に潜入します。
 松原としては、他紙に負けない内容とするため、
 より果敢な突撃レポートにしようと、張り切ります。
 時に、彼は25歳でした。
 スラム街に潜入する前に、数日間の絶食の練習をしたり、
 上野の山で浮浪者の群れに混じって、
 野宿の練習をしたりと十分な準備を行います。
 そして、スラム街に潜入し、様々な人々の様子を克明に記録します。
 その成果を、「最暗黒の東京」として出版します。

 その頃、やはりスラム街に潜入してルポルタージュを書いた、
 桜田文吾の「貧天地飢寒屈探検記」と共に、
 我が国初のノンフィクションの名著と言われています。

 松原は、その後日清戦争の従軍記「征塵余録」や、
 下層社会の職業について記した「社会百方面」などを著した後に、
 博文館に入社し、雑誌の編集に従事します。
 50歳で退職後は、借家を作って悠々自適の生活を送り、
 1935年(昭和10年)70歳で死去しました。
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戦場ヶ原

2011-07-10 | Weblog
 日光と言うと、東照宮などの歴史遺産が有名ですが、
 いろは坂を登った中禅寺湖や戦場ヶ原などの、
 いわゆる奥日光も自然豊かな地域として有名です。
 2005年の秋、この戦場ヶ原を中心とする一帯の湿原260haが、
 ラムサール条約に基づき登録されました。
 ラムサール条約は、
 1971年、イランのラムサール開かれた国際会議で生まれた条約で、
 破壊されやすい湿地の保全を各国が進めることを目的とした条約です。
 日本では、北海道の釧路湿原や、滋賀県の琵琶湖など33カ所が登録されています。

 自然豊かな雄大な湿原に「戦場ヶ原」と言う名前は合わないような気がします。
 「戦場ヶ原」には、かつてこの地で戦闘が行われたとの伝説があります。
 事の起こりは中禅寺湖でした。
 この所有を巡って、下野国(栃木県)の男体山の神と、
 上野国(群馬県)の赤城山の神との間で争いが起こりました。
 そして、赤城山の化身ムカデの大群と、
 男体山の化身ヘビの大群が戦った場所が戦場ヶ原でした。
 男体山の神は、事前に鹿島大明神に相談して、
 奥州の小野の猿丸と言う弓の名人を紹介されます。
 この猿丸が、ムカデ軍の指揮をとっていた、
 2本の角を持つ大ムカデの左の目を狙って矢を射て命中させ、
 赤城の神は撤退し、男体山の神の勝利となりました。
 戦場ヶ原には、赤沼と言う地名も残っていて、
 両軍の血で沼が赤く染まった事が由来と言われています。
 何故、このような伝説ができたのかは分かりません。

 男体山は、782年(天応2年)勝道上人が頂上に至り、開山されました。
 それまで、人間が足を踏み入れた事がなかったとは言い切れませんが、
 標高1395mの高さの湿原です、それほど多くの人が行った場所でもありません。
 人間が行くようになったのは、だいぶ時代が下がってからだと思います。
 想像力の豊かな人がいて、このような伝説ができあがったのでしょうか?
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