天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

ダイヤモンドの採取

2017-07-31 | Weblog
 昔、ダイヤモンドが露出している谷があったとの事です。
 しかし谷が深くて、とても人間が降りていけない場所でした。
 そこで、羊などを殺して大きな肉の塊を作り、
 これを谷底めがけて投げ入れます。
 すると先の鋭いダイヤモンドは、肉塊深くに突き刺さります。
 この肉塊を大きな鷲が餌として掴み巣に運びます。
 鷲の行方を見失わずに追って行き、鷲が巣に戻って食べようとするところを、
 多くの人が巣のそばで騒ぎます。
 すると鷲は驚いて肉塊を放り出して逃げてしまいます。
 残された肉塊からダイヤモンドを採取するとの事です。

 この話は、シンドバットの冒険の中に出て来ます。
 シンドバットの第二の航海の時、
 孤島に取り残されたシンドバットは巨大な鳥ロクの足に自分の身体を結わえて、
 孤島を脱しますが、
 ロクが降りたのは、蛇が沢山いるけれどもダイヤモンドが露出している谷間でした。
 そこで、谷の上から落とされた肉塊に身体を結わえ、
 また鳥に運ばれて助かると言うストーリーです。

 これだけだとおとぎ話のように感じるかも知れませんが、
 同じような話が、マルコポーロの有名な「東方見聞録」にも出て来ます。
 そのモグダシオ島(マダガスカル島にソマリランドの記述が混ざるとの事です。)の条で、
 島の住民が「ルク」と呼ぶ、両翼の幅45mの怪鳥グリフォーンについて述べていて、
 ムトフィリ王国では、シンドバットに述べられたと同じ方法で、
 ダイヤモンドを採取していると述べられているとの事です。
 このムトフィリ王国は、南インドのハイデラバード東北のワランゴールを都とする
 テリンガーナ王国を指しているようです。

 マルコポーロももどこかでこの話を聞いたのでしょう。
 両方に載っていたとしても、信じられませんね。

 以上、宮崎正勝さんの「ジパング伝説」に載っていた話です。
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川崎大師

2017-07-17 | Weblog
 毎年の初詣のランキングでは、1位は明治神宮ですが、
 2位は成田山新勝寺、3位は川崎大師です。
 成田山新勝寺に関しては、前回書きましたので、今回は川崎大師です。
 川崎大師の正式名称は金剛山金乗院平間寺です。
 これも安藤優一郎さんの「大江戸お寺繫昌記」に載っていた話です。

 川崎大師は、平間兼乗(ひらまかねのり)という貧しい武士が、
 ある日海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き上げました。
 兼乗は木像を洗い清め、花を捧げて供養していたところ、
 諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人が、
 弘法大師の木像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、
 1128年(大治3年)平間寺を建立したと伝えられています。

 川崎大師が江戸庶民に有名になるのは、
 第十一代将軍家斉が参詣した事がきっかけでした。
 1796年(寛政8年)が最初で、
 この時家斉は24歳、前厄に当たっていました。
 この5年前、1791年(寛政3年)に、家斉の実父の一橋治斉が参詣し、
 それ以後毎年参詣しています。
 父親の勧めで家斉が参詣したのでしょうが、
 若い将軍が堅苦しい江戸城中を抜け出して
 日帰り旅行で息抜きをしたのかも知れません。
 本厄の時には参詣しませんでしたが、
 1798年(寛政10年)の後厄の時には参詣しています。

 将軍の参詣を契機に、川崎大師への関心が急速に広まり、
 1806年(文化3年)には、江戸出開帳も行われました。

 更に7年後の1813年(文化10年)、
 家斉41歳の前厄祈願のため参詣しました。
 家斉参詣の直前、
 34世山主の隆円上人が急死するアクシデントが起きます。
 川崎大師はその事実を伏せて家斉を迎えますが、
 家斉は後にその事実を知ります。
 自分の厄の身代わりで山主が死去したと聞かされ、
 家斉はいたく感動し、50石の寺領を寄進しました。
 この一件により、江戸の町の評判となって参詣者を激増させました。

 家斉には56人の子供がいた事で知られています。
 12代将軍家慶以外の子は、
 他家に養子に出したり輿入れさせたりしますが、
 これらの諸大名が、将軍が信仰する川崎大師に参詣するのは当然の事で、
 川崎大師の人気が定着する事になります。

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成田山新勝寺

2017-07-06 | Weblog
 成田山新勝寺は、多くの参拝客を集める有名な寺院です。
 平安時代中期に起きた平将門の乱の際、
 939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国に遣わしましたが、
 寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、
 翌940年(天慶4年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸し
 平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行いました。
 新勝寺はこの天慶3年を開山の年としています。
 このように歴史は長い寺ですが、江戸時代元禄期以前は、
 地域の住民からは篤く信仰されていたものの、
 全国区の寺院ではありませんでした。
 それが元禄期、江戸で急速に知名度が上がります。
 その原因が出開帳です。
 開帳とは、秘仏などを期間限定で公開する宗教行事ですが、
 当該寺院で 開帳するのが居開帳、
 他の寺院などの境内を借りて開帳するのを出開帳です。

 成田山が最初に江戸で開帳を行ったのは、1703年(元禄16年)です。
 当時、成田山は本堂(現在の光明堂)を建立し、
 そのための借財が500両ありました。
 成田山では、江戸深川にあった永代寺の境内を借りて、
 不動明王を安置する小屋を建て、江戸っ子たちの参拝を受けました。
 元禄16年4月27日から二か月間の開帳で、
 2000両以上の収入があったとの事です。
 この大成功の理由は、
 江戸歌舞伎の初代市川團十郎が全面的にバックアップした事でした。
 團十郎は、元々成田不動を篤く信仰していましたが、
 開帳中には歌舞伎の舞台で成田不動を演じています。
 出開帳は元禄16年以降、10回行われていますが、
 開帳の度に、二代目團十郎なども成田不動を演じました。
 現在、旧永代寺境内に、成田山深川不動堂が建っていますが、
 出開帳の由緒を踏まえて、1881年(明治14年)に建立されたものです。

 出開帳が成功するかどうかは、どれだけ江戸庶民の話題になるかです。
 團十郎の強い支援もありましたが、他にもありました。
 成田山の場合、江戸入の前日は、日光街道千住宿で宿泊するのが通例でした。
 そこから真っ直ぐ深川に向かうのではなく、
 吉原などの繁華街や大店の立ち並ぶ日本橋界隈を一日かけて練り歩き、
 話題作りのためのPR活動に熱心に取り組みました。

 以上、前回と同じく安藤優一郎さんの「大江戸お寺繁昌記」の載っていた話です。

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