天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

七福神

2015-12-30 | Weblog
 間もなく2015年も終わります。
 年が明ければ、
 年賀状などで七福神の絵を見る機会も多いかと思います。
 宝船に乗った7人の神様は、
 何となく福々しい感じがして微笑ましいですね。

 この七福神の信仰、
 室町時代末期頃から始まったと言われていますが、
 誰が定めたのかは明らかになっていません。
 江戸時代の川柳に、
 「七福神 日本人は 一人だけ」と言う句があります。
 日本人は誰だかお分かりになりますか?

 答えは、恵比寿様です。
 古来から漁業の神とされていますが、
 イザナギ、イザナミの子である蛭子命とも、
 大国主命の子である事代主神とも言われていて、
 神社によって違うようです。
 時代とともに、漁業の神から
 商業や農業の神へと変身して行ったようです。

 他の6神についても書いておきます。
 大黒天は、マハーカーラと言うヒンドゥー教の神の一柱で、
 シヴァの別名の一つとされていて、
 マハーは「大いなる」、カーラは「黒、暗黒」を意味し、
 恐ろしい黒い姿とされています。
 仏教にも取り込まれ、大黒天と呼ばれるようになります。
 日本での大黒天は、
 「大黒」と「大国」の音が通じていることから
 神道の大国主神と同一視されるようになり、
 本来の姿と違い柔和な表情を見せるようになります。
 食物・財福を司る神となりました。

 毘沙門天は、元はインドのヒンドゥー教のクヴェーラ神で、
 これが仏教の神のヴァイシュラヴァナになり
 日本では毘沙門天と呼ばれました。
 仏教における天部の仏で、持国天、増長天、広目天と共に
 四天王の一尊に数えられています。
 また四天王の一員としては、多聞天とも呼ばれています。
 密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされ、
 七福神としては、特に勝負事に御利益があるとされています。

 弁才天(弁財天)は唯一の女性の神様です。
 ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが
 仏教に取り込まれ、
 更に日本では神道にも取り込まれました。
 財宝神のイメージから、弁財天と表記する事が多いようです。
 インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など
 水に深い関係のある場所に祀られることが多いようです。

 福禄寿は、人間の3種の願い、
 即ち幸福、封禄、長寿の三徳を具現化したもので、
 中国の道教の道士天南星の化身や、
 南極星の化身とされています。
 次の寿老人と同体、異名の神とされることもあります。

 寿老人は道教の神で、
 南極老人星の化身でもあるとされています。
 酒を好み赤い顔をした長寿の神とされ、
 不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、
 長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えています。

 布袋は、中国唐末の明州(浙江省)に
 実在したとされる異形の僧です。
 この僧の本来の名は釈契此ですが、
 常に袋を背負っていたことから
 布袋という俗称がつけられたようです。
 肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、
 また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、
 所持品である袋は「堪忍袋」と見なされるようになっています。

 日本の神様1柱、インドの神様3柱、中国の道教の神様が2柱、
 そして実在の仏教の神様1柱と、
 いかにも日本の宗教の状況を象徴するような存在だと思います。

 正月に枕の下に、「七福神の乗った宝船の絵」を入れておくと、
 良い初夢が見られると言われています。

 また、最近は日本各地で七福神巡りが流行っています。
 七柱それぞれの社(やしろ)を順に回り、
 縁起を呼ぶお参りですが、
 この新春も多くの方が
 七福神巡りをなさるのではないかと思います。
 信仰と運動を兼ねた良い催しですね。

コメント (3)
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福澤諭吉の遺体

2015-12-16 | Weblog
 福澤諭吉は、明治時代初期の著述家で、啓蒙思想家で教育者です。
 慶応義塾の創始者としても知られています。
 一万円札に肖像が載せられているので、ご存知の方は多いと思います。

 福澤諭吉の人物について述べるのには、1冊の本が出来るほどでしょうから、
 それはここでは省略しますが、
 数々の功績を残して、1901年(明治34年)2月3日に死去します。
 享年66歳でした。
 死因は脳出血とされています。

 葬儀は菩提寺である麻布山善福寺で行われましたが、
 霊柩は上大崎の墓地に運ばれそこに手厚く葬られました。
 この上大崎の墓地は、もともと正福寺という芝増上寺の末寺のあったところでしたが、
 それが廃寺となり、福澤諭吉が亡くなった頃は、
 その跡を隣りの本願寺が管理していました。
 その後、1909年(明治42年)に、高輪泉岳寺に近いところに在った
 常光寺という芝増上寺の末寺が、廃寺となった正福寺の跡を譲り受けて、
 この場所に移転してきたため、爾来この地が常光寺の墓地とよばれていました。

 1977年(昭和52年)になって、福澤家の墓を一つにまとめることになり、
 5月22日に掘り返したところ、
 そこには地下水が流れていて、1.8mほどのお棺が腐らずに残っていました。
 棺を開けてみると、長身の諭吉が着物を着て帯をしめたまま、
 胸の上で手を重ね、あお向けの姿で透明の地下水にひたり、横たわっていました。
 お棺の内側に青銅が張ってあって、
 諭吉の遺体は地下水に溶けた銅イオンによって守られていたと考えられます。
 それが大気に触れることによって急速に酸化して緑色に変色したものと推定されました。
 遺体は屍蝋化していて、両目と足の指が欠けているものの、
 その他の部分はほとんど亡くなった時のままで、
 部分的にはまだ軟らかな部分もあったとの事です。

 遺体は、ご子孫や大学関係者の意向によって、荼毘に付され
 善福寺に改めて埋葬されました。
 何となく惜しいような気もしましたが、
 関係者のお気持ちも分かるような気がします。

 この話は、神谷敏郎著「あるミイラの履歴書」に載っていましたが、
 土屋雅春著「医者のみた福澤諭吉」に詳しく載っているようです。
コメント (2)
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鞍馬天狗の斬った人数

2015-12-04 | Weblog
 鞍馬天狗と言えば、戦前から戦後に掛けてのヒーローです。
 小説家の大佛次郎が生み出した剣士ですが、
 嵐寛寿郎はじめ多くの俳優が演じて映画化され、
 それによって更に人気が出たものと思います。

 鞍馬天狗は、普段は倉田典膳を名乗っていますが、本名ではなく、
 作品によっては館岡弥吉郎、海野雄吉を名乗っていたりします。
 その素性は謎が多く、
 天狗党の生き残りではないかと言われたこともありますが、
 確証はないようです。
 容姿は、
 「身長五尺五寸ぐらい。中肉にして白皙、鼻筋とおり、目もと清し。」と
 描写されています(「角兵衛獅子」)。

 岩波新書に文芸評論家の川西政明さんが著した「鞍馬天狗」があります。
 この中で、川西さんは大佛次郎の鞍馬天狗に係る全部の著作を調べて、
 鞍馬天狗が小説の中で斬った人数を数えています。
 面白かったので書いておきます。

 鞍馬天狗は、1924年(大正13年)、
 娯楽雑誌『ポケット』に、第1作「鬼面の老女」を発表して以来、
 1965年(昭和40年)の「地獄太平記」まで、
 長編・短編計47作が発表されました。
 この中で鞍馬天狗が斬った総数は181人です。
 内訳として、斬り殺したのが125人、止めを刺さなかったのが2人、
 峰打ちは50人、右腕を斬り落としたのが1人、
 傷を負わせたのは3人です。
 この他に、短筒で殺したのが7人、傷を負わせたのは3人、
 切腹をさせたのが1人でした。

 戦前の作品は、バッタバッタと人を斬っていましたが、
 次第に人物像が変わって来て、
 特に戦後の作品では、人を斬らなくなったと指摘されていました。
コメント (3)
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