天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

大関増裕

2009-07-29 | Weblog
 大関増裕は、1837年(天保8年)遠州横須賀城に、
 領主西尾忠宝の次男として生まれました。
 横須賀藩の江戸藩邸に移ってから、西洋砲術を学び、更には蘭学も学びます。
 この間に、勝海舟から臼砲の図面を伝授されます。
 1861年(文久元年年)、下野国(現在の栃木県)の黒羽藩の養子に迎えられ、
 前藩主の妻待子と結婚します。

 1862年(文久2年)、将軍家茂の上洛に伴い、
 旗奉行、槍奉行に任じられますが、
 同じ年の12月、陸軍奉行に任じられ、将軍随行の役を免じられます。
 1863年(文久3年)、陸軍奉行を辞し、
 前の藩主の影響で混乱が続いていた黒羽藩の人事刷新を行い、
 併せて洋式砲術を開始するなど、藩の軍制の改革をも行います。

 1865年(慶応元年)、海軍奉行に任じられ、
 当時工事の始まった横須賀造船所の視察を行い、
 建設途中の様子を写真に撮らせます。
 将軍家茂が死去し、慶喜に代わりますが、
 1866年(慶応2年)若年寄格となり、その後若年寄となって、
 海軍副総裁となって、海軍奉行を兼務します。
 この間、アメリカに軍艦甲鉄丸を発注したり、開陽丸が届いたり、
 イギリス公使パークスと面談したりと活躍をします。
 慶喜が大政奉還を行った、1867年(慶応3年)12月、
 帰藩を願い出て、黒羽藩に戻ります。
 そして、王制復古の大号令の出た12月9日、
 黒羽藩領の金丸(現在の大田原市金丸)で狩猟中に死亡しました。
 享年30歳でした。

 外様大名であった大関家が、
 陸軍奉行、海軍奉行、若年寄と出世することは、
 幕末とは言え、極めて異例の事でした。
 増裕の使っていた「英吉利文典」と言う英語の書物が3冊、
 黒羽藩の藩校として開設された「作新館」に残されています。
 幕府の開成所が発行した英語の基礎文法の本なのですが、
 その中の1冊には、ビッシリと朱書がされており、
 増裕が熱心に英語を勉強していた事がわかります。

 彼が、何故大政奉還の直後、
 海軍副総裁と言う要職にありながら、黒羽に戻ったのか?
 彼の死が、自殺なのか事故死なのか、あるいは殺害されたのか?
 今もって、その謎は解明されていません。
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裏文書・・・

2009-07-20 | Weblog
 裏と名が付くと、どうも如何わしいイメージを抱くのは僕だけでしょうか?^^
 そんなこともあって、
 最近は裏文書と言うよりは、紙背文書と言う事の方が多いようですが・・・。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、様々な文章が作られましたが、
 紙が貴重品であったことは間違いありません。
 貴重品であったことから、紙は再利用されていました。
 紙の後白を利用して、また何かを書きとめた訳ですね。
 これが裏文書とか紙背文書と呼ばれる文書群で、
 貴重な歴史資料となっています。

 例えば、文治4年正月の日付の文書を集めてみたら、
 天台宗の僧の安然と言う人の「諸阿闍梨真言密教部類総録」と言う著作になり、
 日本に伝えられた聖教について、
 一つひとつ誰が伝えたのかを記したものになるそうです。
 もちろん、貴重なのは「総録」の方ではなく、その裏側の資料ですね。
 この文書は、
 平安末期の高倉天皇の第三女八条院の家に届けられた文書なのです。
 女院とは言っても、当時の八条院は多くの領地を持ち、
 多くの人々が仕えていました。
 定家もそうですし、平家追討の令旨を発した以仁王は、八条院の養子でした。
 その位の力があったと言う事です。
 八条院関係の紙背文書には、平宗盛や源義経の書状などもあるそうです。
 (五味文彦著「藤原定家の時代」)

 また、国立国会図書館が公開している「満済准后日記」は、
 片方が満済准后と言う人の日記であり、片方が暦になっているものです。
 更には、日蓮が著わした聖教の後ろにも、
 中世の関東の状況を知る文書があったと言う事です。
 日蓮ですら、反故紙の裏を使って、著述していたと言うのは、
 当時の紙の価値が高かったと言う事なのだと思います。
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最初の美人コンテスト

2009-07-06 | Weblog
 日本で、最初の美人コンテストが行われたのは、
 1891年(明治24年)の事だったようです。
 それまでにも、色々計画や噂はあったらしいのですが、
 主催者、入選者、会場等の記録が残っているのは、
 この明治24年のものです。

 会場は、東京の浅草にあった、凌雲閣でした。
 この凌雲閣は、明治23年に建設された、
 高さ67mに及ぶ塔で、通称「十二階」と呼ばれて、
 1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊するまで、
 多くの人々に愛されていました。
 この凌雲閣の売り物の一つが
 エレベーターだったのですが、
 警視庁から危険だと言う事で撤去されてしまいました。

 このため、客寄せの一つとして、
 芸者さん100人の写真を各階に飾り、
 客に投票させると言う方法での
 美人コンテストが行われた訳です。
 このコンテスト、初回は人気があったようですが、
 芸者さんの旦那さんが
 投票券を買い占める等の問題もあり、
 3回で終了してしまいました。

 凌雲閣の写真コンテストは、
 芸者さん達が対象だったのですが、
 一般女性を対象にしたコンテストが、
 1907年(明治40年)、
 当時の時事新報社の主催で行われました。
 これは、アメリカのシカゴ・トリビューン社が
 世界一の美人を写真で決めようとした事に
 呼応したものでした。
 当時の女性の常として、
 自ら写真を投稿しようとする人はいませんでしたから、
 参加者の募集にはかなり苦労があったようです。
 結果として、義兄が勝手に写真を送ってしまった、
 学習院の女子学生が優勝します。

 その時の学習院の院長は乃木希典です。
 優勝した女性末広ヒロ子さんは、
 学習院を放校処分になってしまいますが、
 日露戦争の時の軍首脳部の一人、
 野津道貫元帥の子息と結婚します。
 放校処分にはしたものの、
 本人には何らの落ち度がなかった事を気の毒に思った乃木が、
 戦友の息子を紹介したのかも知れません。
 当時の女学校では、綺麗な女性は、
 卒業を待たずに結婚する事がしばしばあったようで、
 卒業した人は不美人との評価があったそうです。

 以上、井上章一さんの
 「美人コンテスト百年史」に載っていた話です。
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