天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

五千石の大大名

2015-10-30 | Weblog
 江戸時代、大名は1万石以上とされていました。
 また10万石以上の大名を大大名と呼んでいました。
 しかし、石高5千石ながら、大大名と同様の格式を持つ家がありました。
 それが下野国(現栃木県)の喜連川(きつれがわ)氏でした。

 喜連川氏は、足利尊氏の次男で
 室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏を祖とします。
 鎌倉公方の後裔にあたる古河公方家と小弓公方家は、
 後北条氏や千葉氏との戦によってすでに衰亡していましたが、
 名門家系であったことから豊臣秀吉に再興を許されます。
 秀吉は衰亡していた小弓公方家の足利国朝に、
 古河公方家跡取の足利氏姫を娶ることを奨め、
 下野国喜連川で400貫の所領を与えます。
 国朝は関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって1000石を加増され、
 4500石の旗本となります。
 国朝の死後、氏姫と国朝の弟頼氏が再婚し、
 喜連川の所領と名跡を受け継いで喜連川氏を称しました。
 徳川家康から足利氏の名族としての伝統を重んじられ、
 10万石並の国主格大名の待遇を受けました。

 江戸城に登城した大名や旗本が、
 将軍に拝謁する順番を待っていた伺候席と呼ばれる控席でも、
 喜連川氏は大廊下下之部屋が与えられます。
 上之部屋には御三家などが詰めていましたが、
 下之部屋は加賀藩前田家のほか、福井藩松平家が詰めていました。
 この他、参勤交代がなくて、正室は喜連川に住んでいましたし、
 正室は、御三家と同じく朱傘を使う事ができました。
 また、様々な負担も免除されていました。

 喜連川氏は、明治まで続き、明治に入って足利氏に復しています。
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新井白石

2015-10-16 | Weblog
 新井白石は、江戸時代中期に活躍した、旗本・政治家・学者です。
 6代将軍家宣に仕えて、
 後に正徳の治と呼ばれるようになる政治改革を行いました。
 白石の身分は500石取り(のち正徳元年1000石に加増)の本丸寄合、
 すなわち無役の旗本でしたが、幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、
 将軍侍講として幕政の運営に関与したのは、白石以外にいません。
 合理主義、批判精神の権化のような白石は、
 旧来の悪弊を正す理にかなった政策を行いますが、
 「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、
 やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになり、
 旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになります。

 家宣が死ぬと、その子7代将軍徳川家継のもとで、
 引き続き政権を担当しますが、
 8代将軍に徳川吉宗が就くと白石は失脚し、
 朝鮮通信使の応接や武家諸法度などの白石が行った政策は、
 吉宗によってことごとく覆されてしまいます。
 また、白石が家宣の諮問に応じて提出した
 膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、
 幕府に献上した著書なども破棄されたと言われています。

 その白石、引退後に、次女ますの縁談に関して、
 あらゆる占いに縋った姿が残されています。
 1717年(享保2年)2月26日、29日付の、
 親友室鳩巣宛の長文の書簡に残っているとの事です。
 その娘は、何回か縁談に失敗した上での事らしいのですが、
 60歳を越えての失意の身としても、
 鬼と呼ばれた剛腹の白石の姿としては異様な感じです。
 年老いて不遇の身、縁遠くなった娘の幸せを祈る心は分かりますが、
 それにしても江戸時代を代表する知性人の一人である白石にも、
 このような人間的な弱さがあったようです。
 なお、この縁談はまとまり、
 翌年には500石取りの小普請役市岡某に嫁しているとの事です。
 以上、淮陰生の「一月一話」に載っていた話です。
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正一位

2015-10-05 | Weblog
 位階と言う制度があります。
 603年(推古天皇11年)に
 冠位十二階の制度を定めたのが最初とされています。
 その後、何回かの変遷を経て、
 701年(大宝元年)の大宝令及び718年(養老2年)の養老令により
 「位階」制度として整備されました。

 明治維新後、位階の制度も何度か変更されますが、
 1887年(明治20年)5月に公布された叙位条例によって、
 位階は栄典としてその役割を特化され、
 現在の正一位から従八位までの16階とされました。

 戦後、生存者に対する叙勲と叙位は一時停止されますが、
 1964年(昭和39年)に生存者に対する叙勲が再開された時も、
 生存者に対する叙位は再開されず、
 死亡者に対する叙位は引き続き行われて来ました。
 現行の叙位は死亡者のみをその対象とするため、
 故人の功績を称え、追悼する意味合いが強くなっています。

 この位階の最高位であるのが正一位です。
 720年(養老4年)10月23日、藤原不比等が叙位されて以来、
 これまでに107人の人が正一位に叙せられています。
 この内、6人が生前に叙せられていますが面白いので、書いておきます。

 藤原宮子  藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人です。
 橘諸兄   奈良時代、聖武天皇を補佐して左大臣になった人物です。
 藤原仲麻呂 後に乱を起こしますが、淳仁天皇の時代に正一位に叙せられています。
 藤原永手  藤原房前の二男で、藤原北家の祖となった人物です。
 源方子   平安時代末期の女性で、中納言藤原長実の夫人です。
 三条実美  明治維新に貢献した公家で、死亡する1週間前に叙されています。

 江戸時代の将軍は、徳川家康から14代の家茂までは正一位ですが、
 徳川慶喜は従一位です。

 戦後、正一位に叙された人はいません。
 吉田茂や佐藤栄作なども従一位です。

 では、最後に正一位に叙されたのは誰かが気になります。
 1917年(大正6年)11月17日に叙された織田信長が最後です。
 ちなみに、豊臣秀吉も1915年(大正4年)8月18日叙されています。
 どのような事情だったのでしょうね。
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