天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

武市半平太の自画像・・・

2024-01-18 | Weblog
 武市瑞山、通称武市半平太は、1829年10月24日(文政12年9月27日)、
 土佐藩郷士の家に生まれた、幕末の志士で、
 通称の武市半平太と称されることが多いようです。
 黒船来航以降の時勢の動揺を受けて、
 攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成します。
 参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、
 京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、
 京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担いましたが、
 八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、
 前藩主山内容堂によって投獄されます。
 獄中闘争を経て切腹を命じられました。享年37歳(満35歳)でした。

 武市半平太は、徳弘董斎に南画を学び、
 弘瀬金蔵にも師事して画才を発揮しました。
 弘瀬金蔵は、通称の絵金で知られた、幕末から明治初期にかけての絵師です。
 半平太は、美人画なども描いていますが、
 獄中で描いた自画像が有名です。
 この自画像は、厳しい追及を覚悟した半平太が、
 盂蘭盆の休日を利用して三枚の獄中自画像を揮毫し、
 それぞれ妻と姉に送りました。

 現在、ネット上で観られる自画像は、高知県立歴史民俗資料館が所蔵している
 半平太の子孫が寄贈したものです。
 半平太作の漢詩が書かれています。
 花依清香愛  花は 清香に依って 愛せられ
 人以仁義榮  人は 仁義を以って 栄ゆ
 幽囚何可恥  幽囚 何ぞ恥ずべけんや
 只有赤心明  只 赤心の 明らかなる 有り
 
 武市半平太の自画像は、
 もう1点宮内庁の三の丸尚蔵館が所蔵しているものがあります。
 これは、1928年(昭和3年)、土佐藩出身で土佐勤皇党にも加わっていた、
 田中光顕が山水図などともに献上したものです。
 半平太が獄中にいた時描かれたようで、
 やはり獄中で詠んだ漢詩が賛として揮毫されています。
 誰が揮毫したのかは、署名が読めませんでした。
 また田中光顕が取得した経緯なども分かりませんでした。

 燕雀得時擅  燕雀 時を得て 擅(ほしい)ままなり
 蒼鷹向暗眠  蒼鷹は 暗きに向かいて 眠る
 如何幽獄裏  幽獄の裏に 如何せん
 慷慨只呼天  慷慨し 只 天に呼(さけ)ぶのみ

 武市半平太については、暗殺者の黒幕としてのイメージも強いようですが、
 「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」の言葉が 残されていて、
 至誠の人と謳われた西郷に匹敵するほどの誠実な人柄だったことが窺えます。
 他方で、高杉晋作らの過激派からは穏健的と見られたり、
 半平太を切腹へと追いやった山内容堂からは
 視野狭窄といった趣旨の批評もなされています。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする