天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

会津八一の名前

2010-08-18 | Weblog
 僕の好きな歌人の一人に、会津八一がいます。
 歌人ですが、書家で学者でもありました。
 もちろん本名です。

 彼は、明治14年8月1日新潟市古町通5番町で生まれました。
 8月1日生まれだから、八一なのだと思っていました。
 しかし、明治14年と言うのは、
 西暦1881年であることに気が付きました。
 西暦で誕生日を表すと、1と8ばかりです。
 そのために、八一と名付けられたのかも知れません。
 彼の父親がどのような人なのか分かりませんが、
 明治の初めに、西暦で誕生日を考えていたとすると、
 かなり進歩的な人だったような気がします。

 同じ新潟出身で、数字ばかりの名前の軍人がいます。
 第二次世界大戦の時の連合艦隊司令長官山本五十六です。
 五十六と言う名は、生まれた時の父親の年齢だと言われています。
 お元気なお父さんだったとも思いますが・・・^^
 新潟県では、数字の名前が多いのでしょうか?
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平民宰相

2010-08-10 | Weblog
 1921年(大正10年)11月4日、
 平民宰相と言われた、内閣総理大臣原敬は東京駅で、
 右翼の青年に暗殺されました。
 原は、日本に内閣制度ができてから10人目の総理大臣です。
 それまでの9人の総理大臣が侯爵とか伯爵の爵位を持つ、
 華族の出身であったのに対して、
 原は爵位を持たなかったため、平民宰相と呼ばれた訳です。

 公侯伯子男の5爵位が定められたのは、
 1884年(明治17年)7月のことでした。
 この時、江戸時代の公家や大名が、
 その家柄や禄高に応じて、爵位を受けました。
 しかし、それだけでなく、明治維新の功労者で、
 明治政府の実力者になっていた人々も爵位を受けます。
 要するに、お手盛りで爵位が配分された訳です。
 ちなみに、原の前の総理大臣で、
 身分的に華族であったのは、西園寺公望くらいで、
 山縣有朋、桂太郎、寺内正毅は長州の、
 黒田清隆、松方正義、山本権兵衛は薩摩の、
 大隈重信は佐賀の、
 いずれも中級、下級の武士の家に生まれています。
 初代の総理大臣、伊藤博文にいたっては、
 長州の足軽の家の出身です。

 更に、その後、政治家や高級官僚、軍人などが、
 国家に功績があったと言う事で爵位を受け華族になりました。
 原は南部藩(今の岩手県です。)の家老の孫であり、
 その父親も藩主の側用人を勤めていた名家の出身です。
 更に、総理大臣になる前には、内務大臣を3度勤め、
 男爵や子爵にはなれる可能性がありました。

 何故爵位を受けなかったのかと言う問題になりますが、
 実は原本人が嫌がっていたのです。
 原は、生涯4度、爵位を受けるチャンスがあったと言われています。
 その都度、原は十分に根回しをして、
 爵位を与えられないようにしていました。
 原が華族となると、衆議院の議席を失い、
 政友会の総裁としての活動に制約を受けると言う
 実際的な理由もあったようですが、
 かつての敵であった薩長藩閥政府がお手盛りで作った爵位など
 受けられるかと言う反骨精神があった事も理由のようです。
 原の死後、改めて伯爵にする動きがあったそうですが、
 気丈なあさ子夫人が、故人の意思だからと言う事で断ったようです。
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