天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

御成道の達磨

2011-01-22 | Weblog
 江戸時代の御成道と言うのは、
 将軍が上野東照宮への参詣するための道です。
 幕末の頃、この御成道の途中に、
 筵を敷いた上で、古本屋を営んでいた人物がいます。
 今の場所で言うと、JR秋葉原駅の西口辺りなのだそうです。

 この古本屋、達磨とあだ名が付く位ですから、
 太っていたのかも知れませんが、
 それ以上に壁に向かって動かなかった達磨のように、
 店先に座り込んで、素麺箱を机代わりに、
 日中せっせと何やら筆記していました。
 彼の名は、須藤由蔵です。
 今の群馬県藤岡市の出身で、江戸に出て古本屋を営みます。
 屋号は「藤岡屋」としていたようで、
 本屋の由蔵なので、「本由」とも呼ばれていたようです。

 この由蔵が生涯に残した「日記」は250冊ほどになります。
 日記の期間は、
 1804年(文化元年)から1868年(慶応3年)の
 65年に及んでいるとの事です。
 内容は幕府の政策や人事、幕末の世相や江戸の事件、
 瓦版などからの抜き書きも含まれています。
 要するに週刊誌的なニュースですね。
 原本は関東大震災で焼失しましたが、
 明治時代に筆写した物が残っていて、
 「藤岡屋日記」として出版されています。

 この由蔵が日々の噂話を書き留めておいたのは、
 どうやら今の通信社のように、情報を売っていたためのようです。
 買い手は、各藩の江戸留守居役です。
 江戸留守居役と言うのは、江戸時代の外交官のような役職でしたから、
 由蔵から情報を仕入れて、藩への報告に使ったのでしょう。
 彼の商売の様子を目撃した人がいます。
 四代目廣重を名乗っていた菊池貴一郎という絵師がその人です。
 彼は「江戸府内絵本風俗往来」の中で由蔵のことを、
 「顔色渋紙の如く、頭髪蓬々たりしを手拭いにて包みたり。
  怪しむべきは、身柄よき武家の来たりて、
  破筵の片辺に着座して何か談話して
  余念なき様を見しこと数度なりける」と、
 得意のスケッチ入りの解説を残しています。
 情報を売ると言う行為は、江戸時代の庶民には奇異に写ったのでしょう。
 本由は 人の噂で 飯を喰ひ と言う川柳が残されています。
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醜の御盾

2011-01-06 | Weblog
 最近はさすがに使われなくなりましたが、
 「醜(しこ)の御楯」と言う言葉があります。
 武人が自らを謙遜する表現です。
 太平洋戦争中に出陣した学徒の手記や、
 特攻隊として散った若者の遺書などに、多く使われています。
 国民の戦意高揚のために使われたキーワードの一つだったと思います。

 色々調べていたら、酒井弘と言う人が、
 「醜の御楯」と言う歌を、
 1942年(昭和17年)にレコーディングしている記録がありましたが、
 どのような歌だったかは分かりませんでした。
 1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫は、
 東京の市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乱入し、自殺しましたが、
 その時組織した「楯の会」も醜の御楯からとった名前でした。

 この「醜の御楯」の出典と言うのが、万葉集の防人の歌です。
 この防人は今奉部與曾布(いままつりべのよそふ)と言う
 下野国出身の人でした。

 今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ我は

 と言うのがその歌です。
 今日からは、自分のことなど顧みずに、
 大君の強い楯として、私は出立する位の意味です。

 この歌の通り、今奉部與曾布は、
 755年(天平勝宝7年)、火長として筑紫に派遣されました。
 火長と言うのは、10人の長ですから、下士官位だったのだと思います。
 今奉部與曾布は、真面目でひたむきな青年だったのかも知れません。
 防人の歌と言うと、家族との離別の悲しみを歌ったものが多いのですが、
 このような歌もあるのですね。
 今奉部與曾布がその後どのような人生を送ったかは分かりません。
 しかし、彼の歌が、千年以上後に、
 多くの若者を戦場に駆り立てる事になるとは、
 考えもしなかったでしょうね。
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