天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

拍手

2016-09-14 | Weblog
 演奏会や舞台などで観衆が拍手をするのが普通になっていますが、
 これは日本の古来からの習慣ではありませんでした。
 明治時代以前は、雅楽、能、狂言、歌舞伎などでは、
 観客は拍手をしませんでした。

 もちろん日本人が拍手をしなかった訳ではありません。
 神社などで神に祈る時に柏手と呼ばれる拍手は行っていました。
 手で音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、
 願いをかなえるために神を呼び出すため、
 邪気を祓うためといわれています。

 更に古く、魏志倭人伝には、
 貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打っていたと記されていて、
 当時人にも拍手を行っていたようです。
 古代では神・人を問わず貴いものに拍手をしたのが、
 人には行われなくなり、神に対するものが残ったのかも知れません。

 このような歴史的な経過から考えると、
 一方において芸人などは河原乞食と呼ばれ、蔑まれていた訳ですから、
 その人達の演技に拍手する習慣がないのも分かるような気がします。

 では、いつから舞台などで
 観客が拍手をするようになったのか気になります。
 永六輔の「芸人その世界」によると、
 1878年(明治11年)、守田勘也が新富座を建設して、
 同年6月7日の開場式に、
 太政大臣・三条実美をはじめ各外国公使らを招待した際、
 これらの外国人達が、マナーとして拍手したのが最初との事です。

 守田勘也は、歌舞伎役者の名跡です。
 当初「森田勘彌」は江戸三座の一つ森田座の座元の名跡でしたが、
 後代になると座元が役者に転じたり、
 逆に役者が座元を兼ねたりしていました。
 新富座を建設したのは十二代目の守田勘也です。
 守田は森田から変わりました。
 新富座の前身守田座は、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が
 木挽町五丁目に開場した劇場で、江戸3座の一つです。
 1876年(明治9年)11月、日本橋区数寄屋町の火災で類焼したため、
 新富町4丁目に移転して建設されたものです。

 「芸人その世界」には、
 1911年(明治44年)に、西欧風の帝国劇場が完成した頃、
 拍手が定着したと書かれていました。

 なお、この本の別の箇所には、六代目尾上菊五郎の言葉として、
 「手を叩いて喜ぶのは池の鯉だ。池の鯉みたいな役者は嫌いだ。」が
 載っていました。
 六代目菊五郎は、1885年(明治18年)に生まれた歌舞伎役者です。
 大正から戦前にかけて活躍しましたが、
 拍手をしなかった頃の歌舞伎が好きだったのかも知れませんね。

 先日、ある音楽家の偲ぶ会があり、出席しました。
 会では、追悼の言葉を述べた所縁の方の外、
 何人かの音楽家が献奏を行いました。
 司会の方から、
 故人に捧げる演奏なので、
 参列者は拍手をしないようにとの注意がありました。
 現在でも拍手をしない場合もあるのですね。

コメント (2)
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栗と栗鼠

2016-09-01 | Weblog
 カタカナで書くのが躊躇われて、漢字を当てたようなタイトルですが、
 これは歴とした絵の題名です。
 描いたのは、河鍋暁斎です。
 僕は河鍋暁斎が好きで、彼の展覧会があるとよく出掛けます。
 昨年の8月29日にも、東京の三菱1号館美術館で開かれていた
 「画鬼 暁斎」との展覧会に行きました。
 河鍋暁斎は幕末から明治初期にかけての絵師です。
 画家と言うよりは絵師の方が肩書きとしては相応しいような気がします。

 三菱1号館を設計したのが明治の初めに日本に招かれたジョサイア・コンドルです。
 日本の近代建築の父とも呼ばれる人で、鹿鳴館など多数の建物の設計を行いました。
 コンドルは暁斎の弟子になった事でも知られています。
 暁斎から、暁英の号ももらっていますし、
 二人で日光に写生旅行などにも来ています。
 暁斎の最期を看取った医師のトク・ベルツを暁斎に紹介したのもコンドルです。

 さて表題の絵は添付した写真です。
 暁斎はどうしてこのような絵のタイトルにしたのか、
 彼が女性の陰核を意味する言葉を知っていたのかどうかを考えてみました。
 栗の木の上から栗鼠が栗の実を落とし、下の栗鼠がこれを食べています。
 中心に描かれた栗の実が見事ですので、栗が主役であるように感じます。
 従って、「栗鼠と栗」のタイトルはないような気がします。
 しかし、暁斎がこの言葉を知っていたとすると、
 言葉に合わせて描いた可能性があります。
 
 河鍋暁斎は、反骨精神の持ち主で、
 1870年(明治3年)には、筆禍事件で捕えられたことがあります。
 多くの戯画や風刺画を残していますし、
 暁斎は春画も描いていて、この展覧会でも出展されていました。

 コンドルやベルツなどの外国人との交際も知られています。
 Clitorisは英語ですから、コンドルなどから教わった可能性は高そうです。
 コンドルも諧謔精神の持ち主ですから、
 2人が示し合わせればあり得るかなとも思ってしまいます。

 この「栗と栗鼠」は、
 暁斎の亡くなる1年前の1888年(明治21年)に描かれています。
 現在はアメリカのメトロポリタン美術館が所蔵していますが、
 絹本墨画淡彩の絵で、サイズは36.2×26.7です。
 この時期に同じ画材でしかも同じサイズの絵を何点か描いています。
 動物を描いた作品で、「鯉図」、「蜥蜴と兎図」、「鹿に猿図」などで、
 その中の1点に件の絵があります。
 これらの絵は、
 かつてコンドルと暁斎の共通の知人であるイギリス人が所蔵していたもので、
 後にアメリカのコレクターへ渡り、メトロポリタン美術館に収められたものです。
 そうした流れからすると、1点だけ細工をするのも変な気がしますし、
 逆に1点くらい悪戯をしても良いような気もします。

 ここまで述べたように、色々考えてみたのですが、
 結局決め手はありませんでした。
 どちらなのでしょうね^^

コメント (3)
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