天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

西行人造人間を作る

2011-12-28 | Weblog
 西行は、有名な平安末期から鎌倉時代初期にかけての歌人です。
 1118年(元永元年)、佐藤康清の息子として生まれ、
 俗名は佐藤 義清(さとうのりきよ)です。
 1135年(保延元年)に兵衛尉に任ぜられ、
 1137年(保延3年)鳥羽院の北面武士として
 仕えていたことが記録に残っています。
 その翌年23歳で出家して円位を名乗り、後に西行と称しました。
 私家集である「山家集」をはじめ、
 多くの歌集にその歌を残しています。
 1190年(文治6年)の陰暦2月16日、
 釈尊涅槃の日に入寂したというのは有名な逸話です。
 行年73歳でした。

 その西行が人造人間を造ろうとしたと言う話があります。
 西行が、高野山の山奥で、人骨を集め人の形に並べて、
 「ひさら」と言う薬を塗った上で洗い清め、
 更に27日置いた後に、沈と香とを焚いて反魂の術を施します。
 しかし、やはり上手くいかなかったようで、
 それ以後は止めてしまうと言うのが、話の荒筋です。

 この話は、「撰集抄」と言う書物に載っている話です。
 この書物は、西行と目される人物を主人公にした説話集で、
 1183年(寿永2年)に讃岐国善通寺で作られたとされていて、
 江戸時代までは西行の自作と信じられて来ましたが、
 その後の研究によって、西行の自作説は否定されています。
 成立年次には諸説があり定まっていませんが、
 13世紀中頃に成立したものと考えられています。
 9巻からなり、神仏の霊験譚・寺院の縁起譚・高僧譚・
 往生譚・発心遁世譚など121話が載っていて、
 上記の話もその一つです。
 撰集抄の信憑性は低く、
 何らかの伝承を脚色したと考えられるものがほとんどですが、
 漂泊の歌人としての西行像を形成するのに貢献し、
 御伽草子・謡曲の素材となったり、
 松尾芭蕉・上田秋成ら江戸時代の作家に影響を与えたりしました。
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熊沢天皇

2011-12-19 | Weblog
 太平洋戦争が終わって間もなく、日本各地に自称天皇が現れます。
 敗戦によって、それまで神とされて来た天皇の権威が
 崩れた事によるものだと思います。
 そうした自称天皇が輩出する根拠としては、
 南朝を正統とするいわゆる「南朝正統論」が
 あったことも否定できません。
 明治の末に、南北朝正統論争が起こり、
 政府は強引に南朝正統を決定し、
 「万世一系」を教育の場に持ち込みました。
 しかし、南朝を正統とすると、
 北朝系の現在の皇統をどのように扱うかは大問題なのですが、
 政府はこの矛盾を解決しませんでした。
 自称天皇の多くが、南朝の直系であると主張しますが、
 中でも有名なのが熊沢天皇です。

 熊沢天皇こと熊沢寛道は、1889年(明治22年)名古屋市に生まれ、
 雑貨商を営んでいました。
 彼の主張は、熊沢家は、足利氏に帝位を追われて、
 尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ
 南朝の後亀山天皇の子孫で、
 南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家であるとするもので、
 南朝第118代天皇であるとの事でした。
 彼の父親も、明治時代に南朝後裔である事を認めるよう
 請願していますので、あるいは家伝だったのかも知れません。

 1945年(昭和20年)11月、
 彼は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の
 マッカーサー総司令官あてに請願書を送ります。
 その請願書が、雑誌「ライフ」の記者の目にとまります。
 翌1946年1月、アメリカ人記者5名とGHQ将校が取材し、
 その記事が「ライフ」に掲載され、
 日本の新聞各社が彼を熊沢天皇と呼んで取り上げたので、
 一躍有名人となり、自称天皇が相次いで出現します。

 天皇の戦争責任が問題になっていた時期でもあり、
 退位の問題とも絡んで、
 連合国側のジャーナリズムは好んでこの自称天皇を取り上げました。
 背景には、天皇制をどうするか検討していた
 GHQの思惑もあったのかも知れません。

 熊沢は、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、
 昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求します。
 その後、歴史学者によって熊野宮信雅王の実在は否定されてしまいます。
 1951年、東京地方裁判所に
 「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から
 不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから
 天皇に不適格である」と訴えますが、
 「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却されました。
 その後、ほとんど世間から忘れ去られた熊沢は、
 1966年(昭和41年)に東京板橋で膵癌のため死去しました。
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