天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

京都観光

2017-11-18 | Weblog
 前回も書きましたように、先日京都に行って来ました。
 京都に行くに当たって、参考にしようと思い、
 高橋昌明さんの「京都<千年の都>の歴史」を読みました。
 僕が常識と考えていた事が覆る事も多く、とても参考になりました。
 その中で、昔の京都観光について書いてあった所があったので、
 抜き書きしておきます。

 1575年(天正3年)の旧暦4月の中旬から5月の下旬にかけて、
 薩摩の武将島津家久が伊勢神宮参詣の途中に京都に立ち寄っています。
 この頃の京都は、織田信長が支配していた時期で、
 同年の旧暦5月21日には、長篠の合戦が起きています。
 家久は連歌師の里村紹巴の案内で、寺社参詣・名所めぐりをしています。
 あるいは、信長の指示があったのかも知れません。
 一行は、嵯峨・東山(清水・祇園)・
 北山(千本・北山)・鞍馬などを訪れています。
 5月1日には賀茂の祭、
 5月中旬には紹巴と親しかった明智光秀の近江坂本城でもてなしを受け、
 屋形船で琵琶湖を遊覧し、日吉社・大津・石山にも詣でています。
 家久は、伊勢参宮の帰途、6月にも3日ほど京都に立ち寄り、
 宇治・伏見・稲荷を通過して、祇園会も見学しています。

 時代が下がって、江戸時代になると
 名所案内記が数多く出版されるようになります。
 「京都もの」も多く出版されますが、
 初めの頃は古典の教養に裏付けられた「読み物」が中心ですが、
 次第に実用的なものに変わって行きます。
 1708年(宝永5年)に刊行された「京都まゐり」では、
 三条大橋を起点にして82か所を3日間で巡る行程が案内されています。
 初日は、百万遍から東山山麓を経て清水寺までの南北の広範な地域、
 2日目は、洛中、東西本願寺、三十三間堂、東福寺、伏見稲荷、
 3日目は、下鴨、上賀茂、大徳寺、北野天満宮、金閣寺、二条城と
 盛りだくさんです。
 概ね1日20km程度の行程ですので、
 当時の人の足ならば可能だったのでしょう。

 現在でも人気を集める観光スポットが網羅されている感じがします。
 京都の街も古いですが、観光ルートも400年以上の歴史があるのですね。
コメント (2)
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最小の国宝

2017-11-04 | Weblog
 文化財保護法に基づく国宝は、2017年9月1日現在で、1101件です。
 その内、建造物が223件ありますので、
 絵画や彫刻、工芸品、書籍などの美術工芸品は、878件になります。
 その中から200件ほどが、
 現在、京都国立博物館で、国宝展として展示されています。
 これらの国宝を4期に分けて展示していますので、
 全部見るためには、4回行かなくてはなりませんが、
 そこまでの余裕がないので、2期分だけ見て来ました。

 3期の展示の目玉として、最小の国宝と銘打って、
 志賀島で発見された純金製の漢委奴国王印が展示されていました。
 この金印は、江戸時代天明年間に、
 水田の耕作中の甚兵衛という地元の農民が
 偶然発見したものです。
 巨石の下に三石周囲して匣の形をした中に存したと伝えられています。
 発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、
 儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある
 金印とはこれのことであると同定したとの事です。

 1966年(昭和41年)に通商産業省工業技術院計量研究所で精密測定されました。
 印面一辺の平均2.347cm、
 鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、
 重さ108.729g、体積6.0625cm³と測定されました。
 1994年(平成6年)の蛍光X線分析によると、
 金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として水銀などが含まれ、
 中国産の金と推定されています。

 紐は身体を捩りながら前進する蛇が
 頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇紐です。
 蛇紐は漢の印制とは合致しません。
 現在確認されている印は、前漢初めから晋代までで26例知られ、
 前漢初期に集中していますが、後漢以後でも13例知られているとの事です。
 駱駝紐が、北方諸民族に与えられるのに対し、
 蛇紐は南方諸民族に与えられた可能性が高いようです。

 印文は陰刻印章(文字が白く出る逆さ彫り)で、
 3行に分けて篆書で「漢〈改行〉 委奴〈改行〉 國王」と刻されています。
 印文の解釈は、文字と改行に着目して諸説あります。
 一般的には、「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、
 奴を古代の儺県(なのあがた)、
 いまの那珂郡に比定される説が有力とされています。
 「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説もあります。
 また、この金印は
 「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものであるとする説もあります。

 この金印は出土状態(地層、関連遺物の有無など)が不明である事などから、
 考古学的には、本来ならば史料として扱うのは困難ですが、
 それが、史料として扱われてきたのは、ひとえに、『後漢書』の「印綬」が
 これであるという認識があるからです。
 後漢書には、
 「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、
  倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」との記載があります。
 後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ賜った印が
 これに相当するとされています。

 この金印については、江戸時代の偽造説なども出されていますが、
 これまでの中国での研究などの進展を踏まえて、様々な論証が行われており、
 本物である事は間違いないような気がします。

 今回の国宝展では、やはり教科書に載っている事が大きいのでしょう、
 多くの人が関心を持っていたようで、
 近くで見るために、待たねばなりませんでした。
 燦然と輝く金印は、とても小さな物でしたが、歴史的な重みを感じました。
 よくぞこのような小さな印が残り、そして発見されたと、
 歴史の奇跡のようにも感じられ、見られて良かったです。

コメント (2)
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