大正時代に活躍した弁護士で、
山崎今朝弥と言う大変変わった方がいました。
どれだけ、変わっていたかと言う事は、
「弁護士名鑑」に載せた自伝履歴書を読むと一目瞭然ですので、
以下それを紹介したいと思います。
君姓は山崎、名は今朝弥、明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、
君之に応じて直ちに信州諏訪に生まる。
明科(あけしな)を距る僅かに八里、
実に清和源氏第百八代の孫なり。
幼にして既に神童、餓鬼大将より腕白太政大臣に累進し、大に世に憚らる。
人民と伍して芋を掘り、車を押し、辛酸を嘗め尽くす。
傍ら経済の学を明治大学に修め、大に得る処あり。
天下嘱望す。
不幸、中途試験に合格し官吏となる。
久しく海外に遊び、ベースメント・ユニバーシチーを出で、
欧米各国法学博士に任ぜられ、特に米国伯爵を授けらる。
誠に稀代の豪傑たり。
明治四十年春二月、勢ひに乗じて錦衣帰朝、
一躍直ちに天下の平弁護士となる。
君資性豪放細心、頗る理財に富み、財産合計百万弗と号す。
即ち、業を東京に興し、忽ち田舎に逃亡し、
転戦三年、甲信を従へ、各地を荒らし、
再び東京に凱旋し、爾来頻りに振るはず、
天下泰平会、帝国言訳商会、私立天理裁判所、軽便代議士顧問部、
各種演説引受所等は、
皆君の発明経営する所なり。
この履歴書は、淮陰生の「一月一話」に出て来ます。
山崎は、布施辰治と1921年(大正10年)、自由法曹団を作り、
思想犯の弁護を一手に引き受けていました。
文中、明科が出て来ますが、例の大逆事件と関係のある場所です。
この履歴書の通り数々の奇行の主でもあり、
1907年(明治40年)に東京で弁護士を開業した時の広告には、
公事(クジ)訴訟は弁護士の喰物
東京米国大使館前 弁護士・米博士 山崎今朝弥
電話赤局八○○番 弁護士頼むな公事するな
と出して、物議を醸し、甲府に移転せざるを得なくなったとの事です。
電話番号は嘘八百をもじったものだと思います。
全く、豪快な人物がいたものだと感心します。
山崎今朝弥と言う大変変わった方がいました。
どれだけ、変わっていたかと言う事は、
「弁護士名鑑」に載せた自伝履歴書を読むと一目瞭然ですので、
以下それを紹介したいと思います。
君姓は山崎、名は今朝弥、明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、
君之に応じて直ちに信州諏訪に生まる。
明科(あけしな)を距る僅かに八里、
実に清和源氏第百八代の孫なり。
幼にして既に神童、餓鬼大将より腕白太政大臣に累進し、大に世に憚らる。
人民と伍して芋を掘り、車を押し、辛酸を嘗め尽くす。
傍ら経済の学を明治大学に修め、大に得る処あり。
天下嘱望す。
不幸、中途試験に合格し官吏となる。
久しく海外に遊び、ベースメント・ユニバーシチーを出で、
欧米各国法学博士に任ぜられ、特に米国伯爵を授けらる。
誠に稀代の豪傑たり。
明治四十年春二月、勢ひに乗じて錦衣帰朝、
一躍直ちに天下の平弁護士となる。
君資性豪放細心、頗る理財に富み、財産合計百万弗と号す。
即ち、業を東京に興し、忽ち田舎に逃亡し、
転戦三年、甲信を従へ、各地を荒らし、
再び東京に凱旋し、爾来頻りに振るはず、
天下泰平会、帝国言訳商会、私立天理裁判所、軽便代議士顧問部、
各種演説引受所等は、
皆君の発明経営する所なり。
この履歴書は、淮陰生の「一月一話」に出て来ます。
山崎は、布施辰治と1921年(大正10年)、自由法曹団を作り、
思想犯の弁護を一手に引き受けていました。
文中、明科が出て来ますが、例の大逆事件と関係のある場所です。
この履歴書の通り数々の奇行の主でもあり、
1907年(明治40年)に東京で弁護士を開業した時の広告には、
公事(クジ)訴訟は弁護士の喰物
東京米国大使館前 弁護士・米博士 山崎今朝弥
電話赤局八○○番 弁護士頼むな公事するな
と出して、物議を醸し、甲府に移転せざるを得なくなったとの事です。
電話番号は嘘八百をもじったものだと思います。
全く、豪快な人物がいたものだと感心します。