日光社参は、江戸時代に将軍家が日光東照宮を参拝する行事です。
将軍あるいは大御所・大納言(将軍家の嫡子)による日光社参は
合計19回実施されました。
その内、特に家光の代には10回と歴代将軍の中では最多です。
日光社参は、家康の命日である4月17日に参拝するように実施されました。
江戸城を発つと、まず日光御成街道を進み、初日は岩槻城に宿泊しました。
さらに次の日は、幸手宿近くで日光街道に入り、
2日目は古河城に宿泊、3日目は宇都宮城に宿泊した後、4日目に日光に到着しました。
日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計8泊9日の行程でした。
家綱の頃までの復路では、今市宿から日光西街道に入り、
宇都宮城の代わりに壬生城に宿泊することもありました。
家光は、家康を尊敬する気持ちの強かった人でしたから、
社参の回数が多いのも、もっともな事だと思います。
社参には、莫大な経費が掛かるため、
家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下しました。
享保13年(1728年)4月、8代将軍吉宗が日光社参を挙行します。
将軍の日光社参は、家綱の寛文3年(1663年)以来65年ぶりのことでした。
吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫していましたが、
享保の改革が行われ、幕府財政は、黒字に転じていました。
しかしながら、依然として幕府財政は厳しいものがある中で社参を行う事は、
吉宗の並々ならぬ決意がありました。
享保時代は開幕以来、泰平の100年が過ぎ、
特に、5代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって、武士の文弱化が進んでいました。
吉宗は、人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があると考えたのでしょう。
将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への軍役動員となる日光社参は、
将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活を目指すものでした。
この時の規模は、供奉者13万3千人、関八州から徴発された人足22万8千人、
馬32万頭といわれています。
譜代大名の20数家をはじめとする多くの大名、旗本が完全軍装で参加しました。
出発当日、4月13日は大雨でした。
奏者番秋元但馬守喬房が午前0時に先駆け、
同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続きます。
吉宗は2千人の武士に守られて午前6時に発駕しました。
最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前10時でした。
御成道筋の庶民には、
「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」との
お達しがあり、庶民は家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまでした。
社参の最中に、何らかの不祥事が起らないよう、厳戒態勢がとられますが、
これは街道筋だけではなく、全国に及んでいました。
以上、9月22日に放送された、NHKのぶらタモリで宇都宮が取り上げられ、
日光社参が宇都宮の町づくりに影響を与えたとの話がありましたので、
吉宗の社参について、調べてみました。
将軍あるいは大御所・大納言(将軍家の嫡子)による日光社参は
合計19回実施されました。
その内、特に家光の代には10回と歴代将軍の中では最多です。
日光社参は、家康の命日である4月17日に参拝するように実施されました。
江戸城を発つと、まず日光御成街道を進み、初日は岩槻城に宿泊しました。
さらに次の日は、幸手宿近くで日光街道に入り、
2日目は古河城に宿泊、3日目は宇都宮城に宿泊した後、4日目に日光に到着しました。
日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計8泊9日の行程でした。
家綱の頃までの復路では、今市宿から日光西街道に入り、
宇都宮城の代わりに壬生城に宿泊することもありました。
家光は、家康を尊敬する気持ちの強かった人でしたから、
社参の回数が多いのも、もっともな事だと思います。
社参には、莫大な経費が掛かるため、
家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下しました。
享保13年(1728年)4月、8代将軍吉宗が日光社参を挙行します。
将軍の日光社参は、家綱の寛文3年(1663年)以来65年ぶりのことでした。
吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫していましたが、
享保の改革が行われ、幕府財政は、黒字に転じていました。
しかしながら、依然として幕府財政は厳しいものがある中で社参を行う事は、
吉宗の並々ならぬ決意がありました。
享保時代は開幕以来、泰平の100年が過ぎ、
特に、5代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって、武士の文弱化が進んでいました。
吉宗は、人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があると考えたのでしょう。
将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への軍役動員となる日光社参は、
将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活を目指すものでした。
この時の規模は、供奉者13万3千人、関八州から徴発された人足22万8千人、
馬32万頭といわれています。
譜代大名の20数家をはじめとする多くの大名、旗本が完全軍装で参加しました。
出発当日、4月13日は大雨でした。
奏者番秋元但馬守喬房が午前0時に先駆け、
同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続きます。
吉宗は2千人の武士に守られて午前6時に発駕しました。
最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前10時でした。
御成道筋の庶民には、
「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」との
お達しがあり、庶民は家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまでした。
社参の最中に、何らかの不祥事が起らないよう、厳戒態勢がとられますが、
これは街道筋だけではなく、全国に及んでいました。
以上、9月22日に放送された、NHKのぶらタモリで宇都宮が取り上げられ、
日光社参が宇都宮の町づくりに影響を与えたとの話がありましたので、
吉宗の社参について、調べてみました。