本居宣長は享保15年(1730年)に
伊勢松坂の大きな商家に生まれた国学者です。
荻生徂徠の系統を受け継ぎ、
古事記の注釈書である「古事記伝」を著して、
日本の文化史・思想史に大きな足跡を残しました。
一方の上田秋成は、享保19年(1734年)に大阪に生まれ、
幼少の頃の大病で手が不自由となりますが、
賀茂真淵の流れを汲む国学を修め、
「雨月物語」をはじめ多くの著作を著した文人です。
この二人が、論争を行ったと言うのは、
比較的有名な話のようです。
二人の論争については、
呵刈葭(かがいか)と言う書物に収められているそうです。
この論争の一つのテーマは
古代国語の音韻を巡る争いだったのですが、
もう一つのテーマが「日の神」論争と呼ばれるものです。
太陽である天照大神がこの国に生まれ、
その子孫である皇室がこの国を統治することは、
この国の比類なき優越性を示すものであると言う
宣長の論に対して、秋成は色々な反論を行うのですが、
その中で、オランダ製の地球図を示して、
この小嶋(日本列島のことですね。)こそが
万国に先立って開かれ、
世界を照らす日月がこの国で生まれたと言っても、
異国の誰がそれを信じるだろうかと言うのは、
正に正鵠を射ていると思います。
この二人の論争、どうも宣長の方が分が良かったようで、
秋成が敗れたような記述が歴史書には多いような気がします。
しかし、僕には宣長の思い上がりに近い皇国至上主義が、
太平洋戦争の悲惨な結果に
結びついたような気がしてなりません。
もう少し、秋成に頑張ってもらいたかったような気がします。
伊勢松坂の大きな商家に生まれた国学者です。
荻生徂徠の系統を受け継ぎ、
古事記の注釈書である「古事記伝」を著して、
日本の文化史・思想史に大きな足跡を残しました。
一方の上田秋成は、享保19年(1734年)に大阪に生まれ、
幼少の頃の大病で手が不自由となりますが、
賀茂真淵の流れを汲む国学を修め、
「雨月物語」をはじめ多くの著作を著した文人です。
この二人が、論争を行ったと言うのは、
比較的有名な話のようです。
二人の論争については、
呵刈葭(かがいか)と言う書物に収められているそうです。
この論争の一つのテーマは
古代国語の音韻を巡る争いだったのですが、
もう一つのテーマが「日の神」論争と呼ばれるものです。
太陽である天照大神がこの国に生まれ、
その子孫である皇室がこの国を統治することは、
この国の比類なき優越性を示すものであると言う
宣長の論に対して、秋成は色々な反論を行うのですが、
その中で、オランダ製の地球図を示して、
この小嶋(日本列島のことですね。)こそが
万国に先立って開かれ、
世界を照らす日月がこの国で生まれたと言っても、
異国の誰がそれを信じるだろうかと言うのは、
正に正鵠を射ていると思います。
この二人の論争、どうも宣長の方が分が良かったようで、
秋成が敗れたような記述が歴史書には多いような気がします。
しかし、僕には宣長の思い上がりに近い皇国至上主義が、
太平洋戦争の悲惨な結果に
結びついたような気がしてなりません。
もう少し、秋成に頑張ってもらいたかったような気がします。