天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

宣長と秋成

2009-02-21 | Weblog
 本居宣長は享保15年(1730年)に
 伊勢松坂の大きな商家に生まれた国学者です。
 荻生徂徠の系統を受け継ぎ、
 古事記の注釈書である「古事記伝」を著して、
 日本の文化史・思想史に大きな足跡を残しました。

 一方の上田秋成は、享保19年(1734年)に大阪に生まれ、
 幼少の頃の大病で手が不自由となりますが、
 賀茂真淵の流れを汲む国学を修め、
 「雨月物語」をはじめ多くの著作を著した文人です。

 この二人が、論争を行ったと言うのは、
 比較的有名な話のようです。
 二人の論争については、
 呵刈葭(かがいか)と言う書物に収められているそうです。
 この論争の一つのテーマは
 古代国語の音韻を巡る争いだったのですが、
 もう一つのテーマが「日の神」論争と呼ばれるものです。

 太陽である天照大神がこの国に生まれ、
 その子孫である皇室がこの国を統治することは、
 この国の比類なき優越性を示すものであると言う
 宣長の論に対して、秋成は色々な反論を行うのですが、
 その中で、オランダ製の地球図を示して、
 この小嶋(日本列島のことですね。)こそが
 万国に先立って開かれ、
 世界を照らす日月がこの国で生まれたと言っても、
 異国の誰がそれを信じるだろうかと言うのは、
 正に正鵠を射ていると思います。

 この二人の論争、どうも宣長の方が分が良かったようで、
 秋成が敗れたような記述が歴史書には多いような気がします。
 しかし、僕には宣長の思い上がりに近い皇国至上主義が、
 太平洋戦争の悲惨な結果に
 結びついたような気がしてなりません。
 もう少し、秋成に頑張ってもらいたかったような気がします。
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津田左右吉先生・・・

2009-02-07 | Weblog
 津田左右吉(つだそうきち)先生を知ってる人も
 少なくなって来たような気がします。
 最近読んだ本の中に名前が出てきて、懐かしくなり、
 今回は津田先生について書いてみようと思います。

 津田先生は、1873年(明治6年)現在の岐阜県美濃加茂市に生まれました。
 17歳の時に上京し、現在の早稲田大学に入学しました。
 優秀な成績で卒業後、東京大学の白鳥庫吉博士の指導を受け、
 日本の古代史や東洋史の研究を行います。
 白鳥博士は、京都大学の内藤湖南博士と、
 邪馬台国論争を行った研究者として有名ですね。
 やがて津田先生は、早稲田大学の教授となります。
 古事記などの神話は事実ではないと唱えますが、
 戦前の皇国史観の論者から訴えられ、執行猶予付きながら有罪とされます。
 戦後、この事件は公訴棄却となり、
 昭和24年には文化勲章、昭和25年には第一回の文化功労者にも選ばれます。
 津田先生の「シナ思想と日本」と言う本を学生時代に読んだ事があります。

 この津田先生、僕の出身高校の教師をしていた事があります。
 その当時は旧制中学でしたが、
 宇都宮中学に明治31年8月29日に赴任して、
 明治32年1月7日に退任しています。
 僅か半年ばかり籍を置いただけで退職した訳です。
 高校の時の歴史の時間に先生が話してくれたのは、
 田舎の中学に赴任して、余りにも出来の悪い生徒ばかりだったので、
 失望して東京に戻ったと言う事でした。
 今回この稿を書くのに参考とさせて頂いた、
 美濃加茂市の先生の略年譜によると、
 中学の教師の資格を取り、群馬県などの中学を
 転々としていたと言う事なので、少し安堵しました。
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