土方歳三は、幕末の京都で活躍した新撰組の副長として有名です。
これまで何度かの新撰組ブームの中で、
局長の近藤勇よりも人気が出ているのではないかと思われます。
函館では、土方歳三の写真をラベルにしたビールもありますし、
出身地の日野市には、資料館もあり多くの人が訪れているようです。
この土方歳三は、趣味として俳句を詠んでいました。
歳三は1835年(天保6年)武州多摩の石田村(現日野市石田)に生まれます。
歳三の祖父は三日月亭巴石と号した俳人で、
大田蜀山人とも交流があったと言われています。
又長兄は盲人でしたが、閑山亭石翠と名乗る俳人でもありました。
それらの関係もあったのでしょう、
歳三も若い頃から俳諧に親しんでいました。
歳三が新撰組の前身である浪士隊に加わり上洛する時、
歳三自ら筆を取って「豊玉俳句集」を作って生家に残して行き、
今もそれが残されています。
豊玉とは歳三が使った俳号です。
歳三が榎本武揚らと北海道に逃れ五城郭で官軍と戦っていたときも、
函館の俳諧師狐山堂無外の屋敷で俳諧の席を持ったとの事です。
その時詠んだ句が下記です。
わが齢(よわい) 氷る辺土に 年送る
官軍が函館を猛攻しやがて函館が官軍に落ちると、
五稜郭にいた歳三は函館奪還を力説し、自ら50名を率いて出撃します。
歳三は陣頭に立ち力戦しますがやがて弾丸が歳三の腰部を貫き落馬し、
歳三は同士に抱えられながら絶命します。
そして絶命した歳三の背中から、血に染まった一枚の短冊が出てきます。
たたかれて 音のひびきし 薺(なずな)かな
これが、土方歳三の辞世の句です。
決して上手い俳句とは思えないのですが、
豊玉俳句集の中から、小説などで取り上げられた有名な俳句を紹介します。
手のひらを 硯にやせん 春の山
願うこと あるかも知らす 火取虫
菜の花の すたれに登る 朝日かな
しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道
公用に 出て行みちや 春の月
これまで何度かの新撰組ブームの中で、
局長の近藤勇よりも人気が出ているのではないかと思われます。
函館では、土方歳三の写真をラベルにしたビールもありますし、
出身地の日野市には、資料館もあり多くの人が訪れているようです。
この土方歳三は、趣味として俳句を詠んでいました。
歳三は1835年(天保6年)武州多摩の石田村(現日野市石田)に生まれます。
歳三の祖父は三日月亭巴石と号した俳人で、
大田蜀山人とも交流があったと言われています。
又長兄は盲人でしたが、閑山亭石翠と名乗る俳人でもありました。
それらの関係もあったのでしょう、
歳三も若い頃から俳諧に親しんでいました。
歳三が新撰組の前身である浪士隊に加わり上洛する時、
歳三自ら筆を取って「豊玉俳句集」を作って生家に残して行き、
今もそれが残されています。
豊玉とは歳三が使った俳号です。
歳三が榎本武揚らと北海道に逃れ五城郭で官軍と戦っていたときも、
函館の俳諧師狐山堂無外の屋敷で俳諧の席を持ったとの事です。
その時詠んだ句が下記です。
わが齢(よわい) 氷る辺土に 年送る
官軍が函館を猛攻しやがて函館が官軍に落ちると、
五稜郭にいた歳三は函館奪還を力説し、自ら50名を率いて出撃します。
歳三は陣頭に立ち力戦しますがやがて弾丸が歳三の腰部を貫き落馬し、
歳三は同士に抱えられながら絶命します。
そして絶命した歳三の背中から、血に染まった一枚の短冊が出てきます。
たたかれて 音のひびきし 薺(なずな)かな
これが、土方歳三の辞世の句です。
決して上手い俳句とは思えないのですが、
豊玉俳句集の中から、小説などで取り上げられた有名な俳句を紹介します。
手のひらを 硯にやせん 春の山
願うこと あるかも知らす 火取虫
菜の花の すたれに登る 朝日かな
しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道
公用に 出て行みちや 春の月