天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

土方歳三の俳句

2013-06-28 | Weblog
 土方歳三は、幕末の京都で活躍した新撰組の副長として有名です。
 これまで何度かの新撰組ブームの中で、
 局長の近藤勇よりも人気が出ているのではないかと思われます。
 函館では、土方歳三の写真をラベルにしたビールもありますし、
 出身地の日野市には、資料館もあり多くの人が訪れているようです。

 この土方歳三は、趣味として俳句を詠んでいました。
 歳三は1835年(天保6年)武州多摩の石田村(現日野市石田)に生まれます。
 歳三の祖父は三日月亭巴石と号した俳人で、
 大田蜀山人とも交流があったと言われています。
 又長兄は盲人でしたが、閑山亭石翠と名乗る俳人でもありました。
 それらの関係もあったのでしょう、
 歳三も若い頃から俳諧に親しんでいました。
 歳三が新撰組の前身である浪士隊に加わり上洛する時、
 歳三自ら筆を取って「豊玉俳句集」を作って生家に残して行き、
 今もそれが残されています。
 豊玉とは歳三が使った俳号です。

 歳三が榎本武揚らと北海道に逃れ五城郭で官軍と戦っていたときも、
 函館の俳諧師狐山堂無外の屋敷で俳諧の席を持ったとの事です。
 その時詠んだ句が下記です。
 わが齢(よわい) 氷る辺土に 年送る

 官軍が函館を猛攻しやがて函館が官軍に落ちると、
 五稜郭にいた歳三は函館奪還を力説し、自ら50名を率いて出撃します。
 歳三は陣頭に立ち力戦しますがやがて弾丸が歳三の腰部を貫き落馬し、
 歳三は同士に抱えられながら絶命します。
 そして絶命した歳三の背中から、血に染まった一枚の短冊が出てきます。

 たたかれて 音のひびきし 薺(なずな)かな

 これが、土方歳三の辞世の句です。

 決して上手い俳句とは思えないのですが、
 豊玉俳句集の中から、小説などで取り上げられた有名な俳句を紹介します。

 手のひらを 硯にやせん 春の山
 願うこと あるかも知らす 火取虫
 菜の花の すたれに登る 朝日かな
 しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道
 公用に 出て行みちや 春の月
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おみくじ

2013-06-19 | Weblog
 神社に行くと、おみくじを引く方も多いかと思います。
 おみくじを製造している会社が山口県周南市鹿野町にあります。
 有限会社女子道社と言う会社です。
 おみくじの全国シェアは7割近いとの事で、
 海外も含め全国5000カ所以上に届けられているとの事です。
 更に、神社などで見掛ける赤い色の自動販売機もこの会社の製品です。
 
 周南市の情報を載せたHPから、事の経緯を記して起きたいと思います。
 明治時代、当時のニ所山田神社の初代宮司宮本重胤氏は
 女性参政権をいち早く訴え、女性神主採用を提言した人でした。
 「敬神婦人会」という全国組織を作り、
 明治39年に機関誌「女子道」を発行します。
 女子道の趣旨は“宗教の外に立ちて日本固有の敬神主義を行う”とあり、
 宗教色にこだわるだけの運動ではなく、
 女性の解放運動にも取り組んだようです。
 この「女子道」は毎月6ページ編集で全国に配布されました。
 この冊子の経費を賄うために考えられたのが、おみくじの製作販売でした。
 自動販売機の先駆けとも伝えられるおみくじ頒布機の考案も
 重胤氏によるものでした。
 80年の実績を誇る羽車式みくじ機は発売当初より好評を博し、
 数度の改良を重ねた現在も
 電気不要の希少な自動頒布機として重宝されています。
 また、二代目清胤氏の代に開発された
 電動式みくじ機・献灯機付き電動みくじ機等と
 今日まで互角に出荷台数を競っているそうです。

 終戦後、機関誌「女子道」はその役目を終え廃刊となりましたが、
 「女子道社」のおみくじ・おみくじ機作りは、
 今日まで脈々と受け継がれているとの事です。 
 「おみくじは占いではなく、神仏の励ましの言葉です。」と、
 今の宮司でもあり同社三代目の宮本公胤氏がおっしゃっているようです。
 現在では20種類以上に及ぶ「女子道社」製おみくじは、
 今日でも創業当時のまま全て手折で仕上げられた後、
 清められ神社に祀られて、我々の手元に届きます。
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常在戦場・・・

2013-06-07 | Weblog
 最近の政治家は、この常在戦場の言葉が好きなようです。
 常に、選挙を意識してよう位の意味で使っているのでしょう、
 与野党ともに、この言葉で引き締めを図っているようです。
 
 この常在戦場と言う言葉は、越後長岡藩の家訓として伝えられた言葉です。
 長岡藩主牧野家は1618年に長岡に入りますが、三河国出身の譜代大名でした。
 三河武士としての矜持を忘れない事を目的としたのでしょう、
 牛久保の壁書と言う家訓を残します。
 ちなみに、牧野は三河国牛久保の出身です。
 壁書は、箇条書きにされたものですが、
 その中に「常在戦場」の言葉もあり、長岡藩士が好んでいたようです。

 長岡藩は、戊辰戦争の中で最大の激戦である北越戦争に敗れ、
 城下町は焦土と化します。
 支藩である三根山藩から見舞いとして米百俵が送られますが、
 その時の長岡藩大参事小林虎三郎は、この米を藩士らに分配せず、
 国漢学校設立資金の一部に充てます。
 小泉元首相が、施政方針演説の中で例に引いた事から、
 有名になりました。
 しかし、この故事は、作家山本有三の戯曲「米百俵」によって
 広く知られるようになった話です。
 「米を分けろ」と詰め寄る藩士らを前に、
 長岡藩の気風「常在戦場」の書幅を背にして
 小林虎三郎が教育へ寄せる思いを熱く語る、
 戯曲「米百俵」の一番の見せ場となっているそうです。

 越後長岡出身の軍人として、海軍大将の山本五十六がいます。
 太平洋戦争の当時、連合艦隊司令長官として、
 真珠湾攻撃などを指揮した人物です。
 山本五十六は、長岡藩の上席家老山本家の養子に入った人です。
 そのような事から、この常在戦場をやはり好んでいたようです。
 山本五十六が揮毫した書が何点か残されています。

 この常在戦場の言葉を政治の場に持ち込んだのは誰か、
 越後長岡の出身の政治家と言うと、田中角栄を思い浮かべます。
 どうも、彼が持ち込んだような気がするのですが、いかがでしょうか?
コメント (2)
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