天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

永田町

2012-06-22 | Weblog
 永田町は、東京の地名です。
 千代田区永田町には、国会議事堂など政治の中枢がある事から、
 日本の政治の中心の代名詞になっています。

 この永田町と言う地名ですが、
 栃木県の旧西那須野町(現那須塩原市)にもあります。
 JR宇都宮線の西那須野駅前の地区になります。
 西那須野の永田町は、東京の永田町からとった名前です。

 明治初年、政府はそれまで広大な原野だった
 那須野が原の開拓に乗り出します。
 その一環として、明治政府の高官などに土地を取得させ、
 大規模農場形式による開拓を目指します。
 佐野常民(257ha)、青木周蔵(1576ha)、大山巌・西郷従道(500ha)、
 品川弥二郎(257ha)、松方正義(1650ha)など多くの高官が農場を設置します。
 これらの農場に建てられた明治の建築なども、
 現在まで残っているものがあります。

 JR西那須野駅周辺には、大山巌と西郷従道が共同で設置した
 加治屋開墾場が、1881年(明治14年)に開設されます。
 後に、大山農場、西郷農場と分離されます。
 この農場を開設した時に、永田町と言う地名を付けたと言われています。
 東京の永田町には、江戸時代薩摩藩の中屋敷がありました。
 そんな事から、薩摩藩の出身だった二人が、地名としたのでしょう。
 最近は下火になってしまいましたが、
 栃木県では国会等移転運動に力を入れていました。
 その候補地として挙げられていたのが、
 西那須野インターチェンジ近くの公有地でした。
 当時、永田町が西那須野に移転するのは、
 百年前から決まっていたなどと冗談を言っていた人もいますが、
 今は言えなくなってしまったようです。
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笑って答えず・・・

2012-06-14 | Weblog
 唐の時代の李白の有名な詩に「山中問答」があります。
 読み下しで表すと、下記の通りです。

 世に問う 何の意あって 碧山に栖むと
 笑うて答えず 心自ら閑なり
 桃花流水 杳然として 去る
 別に天地の 人間に非ざる有り

 かつて、東京都知事に東龍太郎と言う人がいました。
 1959年(昭和34年)から1967年(昭和45年)までの2期8年間知事の職にあり、
 東京オリンピックの開催の時の都知事として有名な人です。
 東知事の3選出馬が取り沙汰されていた頃、
 その件に関して、質問をした議員がいました。
 その時、知事は一言「笑って答えず 心自ずから閑なり」と答え、
 ニヤリと笑ったそうです。
 たちまち議場は騒然となり、笑って答えずとは、
 議会侮辱だと言うような声も上がったようです。
 しかし、都知事の意思は、上記の詩の通り、
 「桃花流水 杳然として 去る」ですから、
 不出馬の意向であった事は間違いありません。
 「山中問答」は、高校の漢文でも習うような漢詩です。
 議会侮辱だと騒ぐ議員の無知無学ぶりがさらけ出された結果になったそうです。
 以上、淮陰生の「一月一話」に載っていた話です。

コメント (2)
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ロンドンデリーの歌

2012-06-07 | Weblog
 「ロンドンデリーの歌(Londonderry Air)」と言うアイルランド民謡があります。
 エアとは風とか空気と言う意味ですが、
 ○○風とか××調と言うような使い方もされています。
 美しく哀愁を帯びた旋律の多いアイルランド民謡の中でも、名曲だと思っています。
 今風の言い方をすれば、癒し系のメロディーなのでしょう。
 テレビのCMなどでも使われる事が多いような気がします。

 ロンドンデリーは、イギリス領北アイルランド第2の都市で、
 フォイル川河口に位置する美しい港町です。
 10世紀ころから、アイルランドの守護聖人の名を採って
 デリー・コルムキルと呼ばれていましたが、
 1613年、イギリスが北アイルランドを占領した後、
 ジェームズ1世がロンドン商人の組合にこの地への植民を許したことから、
 ロンドンデリーと呼ばれるようになったとの事です。

 同じ旋律を使った曲に「ダニー・ボーイ」と言う曲があります。
 イギリスの法律家で作詞家のフレデリック・ウェザリと言う人が作詞したものです。
 この歌詞に「ロンドンデリーの歌」の旋律を付けて、
 1913年アメリカのニューヨークで発売されました。
 アイルランド生まれの名テナー、ジョン・マコーマックが
 アンコール曲として好んで取り上げて以来、世界各地に広まったそうです。
 1913年は、第一次世界大戦の前年になります。
 世界中に戦争の予感が広まっていました。
 出征する息子を思う母親の歌と言うイメージに結びついたのが
 ヒットの理由なのかも知れません。

 「ロンドンデリーの歌(Londonderry Air)」には、
 一説によると、100近い歌詞が付けられているそうです。
 最初に歌詞をつけたのはアルフレッド・グレーヴスで、
 アイルランドの国民的詩人のトーマス・ムーアも感傷的な恋愛詩をつけましたが、
 これらの歌詞では現在ほとんど歌われていないとの事です。
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