天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

早稲田大学建学のきっかけ

2015-07-29 | Weblog
 日本の私立大学の代表と言えば、福澤諭吉が創設した慶應義塾と、
 大隈重信が創設した早稲田大学が挙げられます。
 野球などの早慶戦をはじめ、色々なライバル関係にもある両者ですが、
 早稲田大学の建学のきっかけは、福澤諭吉が勧めたからであると言う話が、
 ウィッキペディアに載っていたので書いて置きます。

 かつて政治家嫌いの福澤諭吉と大隈重信は、度々雑誌で論戦していたそうです。
 福澤は大隈のことを「生意気な政治家」と言い、
 大隈は福澤を「お高くとまっている学者」と言って、
 お互いに会うことを避けていた事から、
 周囲では、二人は犬猿の仲だと思っていました。

 ある日、雑誌の編集部が大隈と福澤を会わせてみようと、
 本人達に内緒で酒宴の席を設けたそうです。
 どうなるかと、周囲は面白がっていましたが、
 直接相対した両者は、酒が回ると意気投合して、
 大隈が「福澤先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、
 福澤が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけて、
 大熊が早稲田大学の前身である東京専門学校を作ったというのです。

 その後、両者は互いの自宅を訪れるほどに親密となり、
 大隈は、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅と言った慶應義塾出身者を
 会計検査院に起用していましたが、
 「大隈は福澤一派と結託して政権を奪い取ろうとしている」との流言が生じます。
 そのため、明治十四年の政変によって、
 大隈および矢野、尾崎、犬養等の大隈支持者が下野する羽目になりました。
 しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、
 政変後に設立された東京専門学校の開校式には、福澤が出席したとの事です。
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判事になった脱獄囚

2015-07-17 | Weblog
 明治維新後、日本においては様々な制度が、急速に整備されました。
 司法制度も同様で、1871年(明治4年)7月9日、
 警察機関である弾正台と裁判機関である刑部省が廃止され、
 司法省が設置されました。
 それまでは、明治元年以降も
 裁判権は事実上地方官によって行使されていましたが、
 司法省の設置によって、裁判権が中央にまとめられます。
 司法卿に着任した江藤新平は、1872年(明治5年)5月22日、
 「司法事務」全5条を定め、
 司法省は全国の裁判所を総括し、諸般の事務を掌るが、
 裁判に関係する事はないとして、
 司法行政と裁判を分離する近代司法の原則を明らかにします。
 それとともに、法曹の人材育成にも着手します。

 1871年(明治4年)9月27日、
 司法省内に本格的な法学教育を行う明法寮を設置し、
 翌年から、ボアソナードなど外国人講師を招聘して、
 学生への教育を始めました。
 その後、明法寮は何度かの改正を経て、
 1885年(明治18年)東京帝国大学法学部に合併されます。

 このような状況でしたから、
 明治時代初期の裁判官は、キチンとした法学教育を受けてない、
 怪しげな裁判官もいたようです。
 1891年(明治24年)3月3日付けの「郵便報知新聞」には、
 長崎県福江区裁判所の予審判事辻村庫太は、
 1880年(明治13年)に三池監獄を脱獄した
 終身懲役囚の渡辺魁であるとの記事が載ります。

 渡辺魁は、元々長崎三井物産会社五島支店の手代だったのですが、
 自らが管理する会社の資金80円余りを窃取して逮捕され、
 終身懲役の宣告を受けて服役しますが、脱獄します。
 その後強盗などを働いていましたが、
 姓名を変えて上京し、法律学校に入って卒業し、
 判事登用試験に合格して判事試補を拝命し、
 やがて予審判事となっていました。
 しかし、悪事は露れるもので、いつのまにか強盗判事の噂が立ち、
 大村区裁判所の検事某が、かつての渡辺の事件に関係していたため、
 その検事が福江に出張して内偵し、直ちに捕縛しました。

 制度が整えられるまでの間には、
 考えられないような事も起こるのですね。
 以上、楠精一郎さんの「児島惟謙」に載っていた話です。
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髭皿

2015-07-06 | Weblog
 髭は、男性のシンボルと考えられているようです。
 イスラム教圏では鬚を生やしていない男性は一人前と見られませんし、
 ユダヤ教徒、アーミッシュ、インドのシク教徒などは、
 戒律により一生髭を剃りません。
 日本でも、中世の武士は髭を蓄えることは当然とされ、
 豊臣秀吉のように、髭の薄い者は
 付け髭をつけることが行われていたようです。
 ヨーロッパ社会でも、18世紀頃から、特にヴィクトリア朝イギリスで
 髭を蓄えることが流行し、
 日本でも明治時代には、その影響から地位の高い男性の間では、
 髭を蓄えることが流行しました。

 江戸時代に製作された伊万里焼きの中に、
 髭皿と呼ばれる種類のものがあります。
 丸い皿の一部が、半円形に切り取られています。
 また、その反対側に小さな穴が2個開けられているのが普通です。
 伊万里焼きですから、皿の表面には、
 女性の絵や花の絵が描いてあって、華やかな感じがします。
 製作されたのは、元禄から享保年間辺りで、
 17世紀末から18世紀初頭に掛けての物が多いようです。
 この髭皿、国内で使われていた訳ではなく、
 ヨーロッパに輸出されていました。
 当時は鎖国の時代でしたが、オランダの東インド会社を通じて輸出され、
 日本国内には、ほとんど残らなかったようです。
 鎖国の時代にあっても、ヨーロッパ社会の需要動向を把握し、
 それに合う製品を製作していた事に驚かされます。
 現在、髭皿がオークションなどに出品されていますが、
 ヨーロッパ社会からの里帰り品なのでしょう。

 この髭皿、具体的な使用方法が分かりませんが、
 あごを半円形の所に当てて、髭の手入れをしたのでしょう。
 当時の手入れは、剃刀ではなく鋏を使っていたようなので、
 切ったひげが散らないようにしたのでしょうか。
 上部の穴の使い方がよく分かりませんが、
 紐を通していたのは間違いないようです。

 いずれにしても、髭皿は、
 当時の最新の情報に基づく物づくりを行った伊万里焼きの職人の、
 機敏さの歴史的な証拠なのでしょう。
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