天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

最古の記譜(将棋編)

2013-09-20 | Weblog
 将棋の起源は、インドのチャトランガと言われています。
 このチャトランガが西に伝わってチェスになり、
 中国を経て日本に伝わって将棋になった訳です。

 将棋がいつ日本に入ったかは明らかになっていません。
 囲碁は、正倉院に碁盤が保存されている事から、
 奈良時代前期に伝わった事は間違いありません。
 これに対して、将棋を吉備真備が唐から
 持ち帰ったとも言われていますが、どうも伝説の域を出ないようです。

 平安時代後期には、文献にも登場し
 将棋の駒が興福寺境内から発掘されていますので、
 この頃には将棋が楽しまれていたものと考えられています。

 この頃の将棋は駒が多く、平安大将棋と呼ばれているものでは、
 盤面は15×15で、駒の種類も13種類あったようです。
 更に、中将棋と呼ばれるものや、
 現在の将棋に近い小将棋と呼ばれるものもあり、
 そのルールも推定の域を出ていません。

 現在の将棋のルールが定着するのは、
 概ね15世紀頃と考えられていますが、
 江戸時代に入ってからでも、何種類の変わり将棋が考えられ、
 現在でも愛好者がいる将棋もあります。

 江戸時代に入ると、将棋は、囲碁とともに、幕府の公認となります。
 1612年(慶長17年)に、
 幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)と大橋宗桂に
 俸禄を支給することを決定し、彼らは家元となります。
 大橋宗桂は、現在日本将棋連盟が初代名人と定めた人物です。
 本因坊算砂は、囲碁の名人として四家元の一つになりますが、
 算砂は将棋も強く、宗桂も囲碁が強く、
 二人で、囲碁も将棋も行ったようです。
 この二人の棋譜が、現在残っている将棋の最古の棋譜です。
 1607年(慶長12年)に指されたもので、
 先手大橋宗桂、後手本因坊算砂の対局で、
 133手で宗桂が勝っているとの事です。
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最初に紅茶を飲んだ日本人

2013-09-12 | Weblog
 大黒屋光太夫と言うと、井上靖さんの「おろしや国酔夢譚」や
 吉村昭さんの「大黒屋光太夫」で描かれ、
 既に多くの方が御存知だと思います。

 江戸末期の1783年(天明3年)、伊勢国白子から江戸に向かう途中、
 嵐に遭って漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着します。
 ロシアの首都ペテルブルグで
 皇帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、
 漂流から約9年半後の1792年(寛政4年)に根室港入りして帰国しました。
 江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として、
 桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した人物です。

 1791年11月1日、大黒屋光太夫はエカテリーナ2世の茶会に招かれます。
 この時、日本人で初めて紅茶を口にしたと考えられています。

 紅茶は比較的最近飲み始められた飲料です。
 17世紀、東インド会社がヨーロッパ社会に茶をもたらします。
 しかし、これらのお茶は緑茶や烏龍茶だったようです。
 俗に、中国からイギリスに
 お茶がインド洋を通って船で運ばれていく途中に、
 赤道を通過してくるため、湿度と温度が高くなり、
 発酵して紅茶になったと言われていますが、これは誤りです。
 本当は、1785年頃、福建省武夷山の烏龍茶を進化させて、
 安徽省の祁門で紅茶が生まれたようです。
 インドのアッサム地方で、紅茶に向いた茶の木が発見されるのは、
 1823年の事です。

 光太夫が飲んだお茶が紅茶だったかどうか、
 微妙なところかも知れませんが、
 ヨーロッパ文明を積極的に取り入れていた、
 エカテリーナ2世のサロンですから、
 新製品の紅茶が出された可能性は高いでしょう。
 1983年(昭和58年)日本紅茶協会は、
 11月1日を紅茶の日と決めています。
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