天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

女敵討ち

2008-09-26 | Weblog
 女敵討ちと言うのは、奥さんを寝取られた旦那さんが、
 相手の男やその奥さんを成敗する事で、江戸時代には認められていました。
 もっとも、江戸時代の間でも、これを奨励したり、
 抑制したりと、時々の為政者により多少の変化はあったようです。

 明治15年、刑法が定められます。
 いわゆる旧刑法です。
 この中に、
 本夫其妻ノ姦通ヲ覚知シ 姦所ニ於イテ直チニ姦夫又ハ姦婦ヲ殺傷シタル者ハ
 其罪ヲ宥恕ス
 但シ 本夫先ニ姦通ヲ縦容シタル者ハ 此限ニ在ラス
 と言う規定がありました。
 姦通の現場で時を置かずに殺傷させた者は、罪が軽減されると言う規定です。
 明治の時代になっても、女敵討ちが認められていた訳です。

 この解釈を巡っては、追いかけて行って門の外で殺傷した場合はどうかとか、
 現場を押さえようと待ち構えていた場合はどうかなど、
 色々な説が出されていたようです。
 今の感覚から言えば驚くような内容なのですが、
 旧刑法の以前、明治元年に制定された「新律綱領」では、
 このような場合は完全に無罪とされていましたから、
 少しは改善されていたと言えるのかも知れません。

 しかし、この条文は必ずしも日本だけのものではありませんでした。
 寝取られた夫の殺人行為を大目に見る事は、
 中国でも元の時代から清の時代まで続いて規定されていましたし、
 フランス、イギリス、ベルギーなどの近代刑法にも同様の規定がありました。
 旧刑法は、フランス人ボアソナードが原案を作っていますが、
 彼はフランスの刑法を元にした事はもちろんです。

 この規定、親の敵討ちをした者が死刑になるのと比較して、
 バランスに欠けると言う批判もあり、
 明治40年に制定された刑法(現行の刑法です)では、
 なくなってしまいました。
 この刑法では、「姦通罪」は残っていましたが、
 戦後それも削除された訳です。
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ダルタニヤン

2008-09-16 | Weblog
 ダルタニヤンは、アレクサンドル・デュマの名作
 「三銃士」の主人公です。
 「一人は皆のために、皆は一人のために」と言う三銃士のモットーは、
 僕の好きなセリフの一つです。

 さて、このシャルル・ダルタニヤン、
 実在の人物であった事は余り知られていないのではないかと思います。
 生まれた年は正確には分からないのですが、1615年頃だそうです。
 フランスはガスコーニュ地方の出身でした。
 ガスコーニュ地方は、余り豊かな地方ではなかったようで、
 多くの若者が土地を離れてパリに行き、軍人になりました。
 こうした郷土の先輩を頼ってパリに行ったダルタニヤンは、
 やがて時の権力者マゼラン枢機卿に見出され、その腹心となります。

 更に、当時のフランス国王、ルイ14世に重用され、
 近衛隊長の地位に上り、そして銃士隊の隊長代理になります。
 当時、近衛隊より銃士隊の方が各上とされており、
 更に銃士隊の隊長には国王が当たっていましたから、
 実質的な隊長であった訳です。
 ダルタニヤンに、それほどの目覚しい軍功があった訳では
 なかったようですが、
 私財を使って部下の面倒をみたり、罪人にも情けを掛けるなど、
 爽やかな快男子として人気があったようです。
 リールと言う都市の総督に任命されたり、
 様々な任務を与えられ、これを着実に達成させていきます。

 順調に出世したダルタニヤンも、
 1673年6月25日、マーストリヒトの攻防戦の中で、
 銃撃を受け死亡してしまいます。
 ルイ14世は、王妃宛に手紙を書き、その中で、
 「朕はダルタニヤンを失ってしまいました。
 朕が最も大きな信頼を寄せていた男です。」と書いたそうです。
 以上、佐藤賢一さんの「ダルタニヤンの生涯」に載っていた話です。
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ダイヤモンド・・・

2008-09-10 | Weblog
 ダイヤモンドは最も硬い鉱物で、
 その美しさが多くの女性の心を捉えて離さないようです。
 僕は、余り宝石の類が好きではなく、
 それを有難がる心境が良く分かりませんが・・・。

 さて、ダイヤモンド、4Cと言って、
 色々な評価の基準がありますが、
 何と言っても最も影響があるのは、
 大きさなのでしょう。
 世界最大のダイヤモンドは、
 イギリスのロンドン塔に展示されている、
 カリナンダイヤモンドです。

 このダイヤモンドは、
 1905年、世界一大きなダイヤモンド原石として
 南アフリカで発見されました。
 その鉱山の所有者の名前から、
 カリナンダイヤモンドと命名されました。
 原石の重さは 3106 カラットでした。
 1カラットは0.2グラムですから、
 約620グラムですね。
 このカリナンダイヤモンドは、
 イギリスのエドワード七世に献上され、
 王はこれをカットして9 個の大きな石と
  96 の小さな石にしました。
 そのうちの1つがカリナンⅠで、
 アフリカの星とも呼ばれています。
 重さが530.2カラットで、
 カットされたダイヤモンドでは、
 現在これが世界最大です。
 イギリスのロンドン塔は、
 色々な歴史のある建物ですが、
 最近はこのダイヤモンドを目当てに訪れる人も多いようです。

 確か、北杜夫さんが、「怪盗ジバコ」で、
 このカリナンダイヤモンドを見たご婦人方が、
 自分のダイヤモンドと比べてため息を付く、
 と書いていたような記憶があります。
 そのようなダイヤモンドを持ったら、
 安心して眠る事もできないでしょうね。
 何も持たない我々庶民の方が、
 ズーっと幸せだと思います。
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新橋芸者のヨーロッパ興業

2008-09-02 | Weblog
 明治33年、今から100年以上昔のことですが、
 新橋の芸者さんの一行8人がヨーロッパで興行をしたと言う話があります。
 この一行、きちんとした行程はよく分からないのですが、
 行った人の話によると、ウィーン、ブダペスト、パリ、ベルリンなどの外、
 モスクワにまで足を伸ばしたようです。
 一番長く滞在したのは、パリのようで、10ヶ月程度滞在しています。

 丁度、彼女たちが滞在していた時は、パリ万国博覧会が開催されていて、
 日光の五重塔を作りに行っていた大工さんに、
 和風の風呂なども作ってもらったようで、
 彼女達を雇った会社が、味噌醤油の手配までしていたようです。
 この時のパリ万博には、
 例の川上音二郎がマダム貞奴を連れて出演していたので、
 あるいは彼女達と交流があったかも知れません。

 パリでは、フランス人の若い陸軍士官が、彼女達の一人に熱を上げて、
 結婚を申し込んだなどと言うこともあったようです。
 さらに、パリの女性達も、一行の着物姿が珍しく、
 着物を貸してくれと言ってきたり、髪の結い方を教わりに来たりと、
 中々賑やかだったようです。
 また、ブダペストでは、一行の中に病人が出て舞台に上がる事ができず、
 困窮すると言うような事もあったようですが、
 ベルリンから現金を運んでくれた日本人がいて、窮地を脱したりもしました。

 彼女達の出し物の中心は踊りですが、どうも品の良い長唄や清元は喜ばれず、
 カッポレなどの動きの激しい滑稽な踊りが受けたようです。
 その当時のヨーロッパでは、
 既に「ゲイシャ」を主題とした演劇を上演している
 ヨーロッパ人の俳優達もいたらしく、
 彼女達との共演も行われていました。
 そうした際には、着物の着方やお辞儀の仕方など、
 細々とした事を彼女達が教えたようです。

 様々な国を巡って、彼女達一行は明治35年に無事に帰国しました。
 帰国後、当時の桂太郎総理大臣の園遊会に招かれて、
 踊りを披露したりしています。
 航空機もない時代でしたが、明治時代の日本人の活力に驚いてしまいます。
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