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天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

立ちん坊

2011-05-21 | Weblog
 明治の末から大正に掛けて、
 「立ちん坊」と呼ばれる職業がありました。
 坂の下などに立っていて、
 人力車や重い大八車、荷馬車などを引いて来る人がいると、
 坂の上まで後押しをして、幾ばくかのお金を貰う職業でした。

 東京や横浜は坂の多い街です。
 そんな事から、一時期は多くの「立ちん坊」がいたようです。
 しかし、中には不逞の輩もいたようで、
 親切そうに車を押しながら、
 女性の簪などを抜き取る者もいたそうです。
 女性や子どもには怖い存在だったかも知れません。

 魚の鮟鱇がいつ来るか分からない獲物を
 じっと待っているところに似ていることから、
 「立ちん坊」は別名「あんこう」とも呼ばれていたそうです。
 このような職業が成り立つほど、
 当時は大八車や荷馬車が多かったのだと思います。

 明治時代、洋画家にとって、
 デッサンのモデルを探すのは容易な事ではありませんでした。
 女性は水商売の人などを口説いてできたようですが、
 男性は特に難しかったようです。
 そこで、日頃の労働で筋骨逞しく、時間にゆとりがあって、
 余り豊かとは言えなかった「立ちん坊」は、
 丁度良いモデルになりました。
 何もしないで、ただ立っているだけで稼げるので、
 「立ちん坊」もモデルに誘われるのを喜んでいたようです。
 1907年(明治40年)に
 和田三造が第1回文展に出品して評判となった、
 名画「南風」に描かれている漁師の中にも、
 当時モデルにもなっていた
 「立ちん坊」の顔が見られると言う事です。
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相対死・・・

2011-05-07 | Weblog
 最近は余り使われなくなりましたが、
 相対死(あいたいじに)と言う言葉がありました。
 心中と同じ意味なのですが、
 幕府が相次ぐ心中を防ぐために、禁令を出した際に、
 「心中」と言う言葉を使う事も禁止しました。
 心中が、当時の社会の重要な規範であった「忠」を
 分解した言葉であると言うのが、その理由です。

 1703年(元禄16年)4月7日、
 大阪内本町橋詰の醤油屋平野屋忠左衛門の手代徳兵衛と
 堂島新地新茶屋町天満屋抱えの遊女おはつが、
 大阪曽根崎天神の森で心中しました。
 この事件をいち早く浄瑠璃芝居に仕立て上げたのが近松門左衛門で、
 事件後1ヶ月後には「曽根崎心中」として、
 道頓堀竹本座で上演され、大好評を博します。
 御存知の方も多いと思いますが、
 近松は、「恋の手本となりにけり」と賞賛したこともあり、
 心中事件が連鎖反応的に起こります。

 曽根崎心中から3ヶ月後に書かれた「京大阪堺心中かの子」が出版され、
 そこには、曽根崎心中も含めて18件の心中した男女の
 名前、年齢、身分、場所などが書かれているとの事です。
 こうした心中ブームは江戸にも及び、
 曽根崎心中から20年後の
 1723年(享保8年)幕府も禁令を出すに至った訳です。
 これによると、心中した者の葬儀を営む事は許されず、
 遺体は取り捨てにされ、片方が生き残った場合には死罪、
 二人とも生き残った場合には3日間晒してから、
 の手下にすると言う厳しいものでした。
 更に、心中を取り扱った書物は出版禁止、
 歌舞伎も上演禁止とされました。
 そして、先に述べたように、
 「心中」と言う言葉も禁止された訳です。
 この「相対死」と言う言葉、
 発案したのは、大岡越前守忠相と言う説があります。
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