天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

学問の神様

2016-05-26 | Weblog
 学問の神様と言えば、天神様と呼ばれる菅原道真を指すのが常識だと思います。
 菅原道真は845年8月1日(承和12年6月25日)、
 参議菅原是善の三男として生まれます。
 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人で、
 醍醐天皇の時には右大臣にまで昇りました。
 しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、
 大宰府へ大宰員外帥として左遷されて
 903年3月26日(延喜3年2月25日)、現地で没しました。
 死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、
 当時の御霊信仰によって、左遷が取り消されて復権し、
 947年(天暦元年)に北野天満宮に祀られた訳で、
 当初は学問の神ではなかったと思います。

 確かに道真は幼少の頃から詩歌に才を見せ、
 862年(貞観4年)18歳で文章生となり、
 877年(元慶元年)には、大学寮で教授などを勤める文章博士になっています。
 この文章博士は、728年(神亀5年)に設置されたもので、
 道真の以前に何人もの文章博士がいました。
 更に道真の祖父菅原清公以来3代続けて菅原氏が文章博士に地位に就いていて、
 半ば世襲化されていました。

 僕はかねてから、
 怨霊であった菅原道真が、いつどのような事から学問の神様になったのかと
 不思議に思っていたのですが、
 最近読んだ一坂太郎さんの「幕末・英傑たちのヒーロー」に出ていました。
 佐藤包晴さんと言う方の「菅原道真」からの引用ですが、
 1011年(寛弘9年)、文章博士の大江匡衡が
 北野天満宮に捧げた願文がきっかけとの事です。
 その中で大江匡衡は、学者としての道真を
 「文章の太祖、風月の本主」と称えていて、
 この時から学問の神様になったと記されていました。

 大江氏は、菅原氏と並ぶ学問の家柄で、
 道真失脚後は大江氏が文章博士を世襲していました。
 大江匡衡は、平安の女流歌人赤染衛門の夫だった人物です。
 名儒と称され、地方官としても善政の誉れの高かったようです。
 かつてのライバル関係にあった大江氏から認められた事が、
 学問の神様を定着させたのかも知れません。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畠山勇子

2016-05-09 | Weblog
 畠山勇子は、1865年(慶応元年)、安房国長狭郡鴨川町で生まれます。
 17歳で隣の千歳村の家に嫁ぎましたが、23歳で離婚しています。
 東京に出て華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、
 伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋に
 お針子として住み込みで奉公していました。
 当時の女性としては珍しく、政治や歴史に興味を持ち、
 政治色の強い新聞などを熱心に読んでいたとの事です。

 1891年(明治24年)5月11日、来日中のロシアのニコライ皇太子が、
 警備に当たっていた警察官の津田三蔵に切りつけられて重傷を負う、
 いわゆる大津事件が発生し、日本中が騒然となりました。
 日露戦争が起きるのは1904年の事です。
 当時は弱小国だった日本の、しかも警察官がロシアの皇太子を傷つけた訳ですから、
 当時の日本政府は真っ青になりました。
 ロシアに誠意を見せるため、明治天皇は5月12日の朝、汽車で東京を出発し、
 当日の夕方に京都に到着し、翌13日にニコライを見舞っています。
 そしてニコライは本国からの指示により、
 19日に神戸から帰国しました。

 この事件を知った畠山勇子は、急遽京都に駆けつけます。
 そして、5月20日の午後7時過ぎ、
 「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、
 府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、
 剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀りました。
 即死には至らず病院に運ばれましたが、出血多量で絶命しました。
 享年27歳でした。
 彼女が京都に向かったのは、ニコライが帰国するのを止めようとしたらしいのですが、
 京都に着いた時には既にニコライは出国していたため、
 ロシアに対する謝罪として自殺したものと考えられています。

 彼女の死は「烈女勇子」と国家主義者などが喧伝して世間に広まり、
 盛大な追悼式が行われました。
 墓は京都市下京区の末慶寺にありますが、
 彼女の墓にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や
 ポルトガル領事・モラエスも訪れているとの事です。

 事件後、ロシアは津田三蔵の死刑を求め、政府もその方向で大審院に圧力を掛けますが、
 当時の大審院長児島惟謙はこれを退け、
 事件後16日で、大逆罪ではなく一般人の謀殺未遂罪で無期徒刑に処し、
 司法権の独立を守ったと言われています。

 死刑を求めたロシア側でしたが、
 この判決を知っても武力報復や賠償請求を求めたりしませんでした。
 その理由として、畠山勇子のニコライ皇太子に宛てた遺書や
 センセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、
 強硬な姿勢を取れなかったためとの見方もあります。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする