天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

新聞供養大施餓鬼

2022-03-21 | Weblog
 文明開化を進めるために新聞を奨励した明治政府でしだが、
 新聞論調が民権派に傾くと抑圧に転じます。
 新たな新聞紙条例と讒謗律が、1875年(明治8年)6月28日に制定さました。
 2法により各紙が軒並み筆禍事件に巻き込まれます。
 1年間で47人が投獄を含む処罰に遭ったとの事です。

 このため、新聞紙条例などが制定された1年後の1876年(明治9年)6月28日、
 東日、報知、朝野、横浜毎日、あけぼの、読売、東京絵入、かなよみ、評論、
 草莽雑誌、近事、問答、東京新誌等の各社で、
 新聞供養大施餓鬼会を浅草観音堂で営みました。
 『明教新誌』を発行する明教社が会行事(差配役)となり、
 大新聞と小新聞、形態の違う新聞社が共に参加しました。
 因みに、『明教新誌』は、
 明治7年から明治34年まで4,603号に亘って続いた仏教新聞です。

 この日は、全紙が休刊したとの事です。
 施餓鬼が行われた浅草観音堂は、
 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した、
 旧国宝の浅草寺本堂です。
 浅草寺は1950年(昭和25年)から聖観音宗になっていますが、
 それ以前は天台宗でした。
 そのため、38 名の天台僧が出仕し、
 列席した各社の記者のうち、24 名が祭文を読んだとの事です。
 それらの祭文の内容は、新聞紙上の死者の弔い、入獄している記者への祈祷、
 新聞記者の境遇の観衆への告知、
 言論の自由を求める運動などであったとの事です。
 
 施餓鬼は元々餓鬼の為に飲食を施す法会であり
 「施食会」や「冥陽会」とも呼ばれています。
 施食を行う善根功徳を以て餓鬼の滅罪追福を図ることから転じ、
 震災・戦役・水害などで悲惨な死を迎えた
 「報われない死者」を救うという意味を持つ法会ともなりました。
 新聞供養大施餓鬼は、言論弾圧を行う明治政府に対する、
 ブラックユーモア的抵抗だったのでしょう。

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桜田門外の変の原因

2022-03-07 | Weblog
 1860年3月24日(安政7年3月3日)、
 大老井伊直弼が水戸藩脱藩者などに暗殺されたのが、桜田門外の変です。
 その原因は、将軍継嗣問題と修好通商条約の締結などが絡んだ、
 政治的なものであったとするのが定説になっています。
 先日、これとは全く違う説を知ったので、書いて置きます。

 牛肉が日本で食べられるようになるのは明治時代に入ってからとされていますが、
 江戸時代にも彦根藩では食べられていました。
 そして将軍家に献上する他、多くの大名に配られていたようです。
 彦根藩は、幕府に陣太鼓に使う牛皮を毎年献上するのが慣例で、
 江戸時代、公式に牛の屠殺が唯一認められていた藩でした。
 三代藩主直澄時代の家臣花木伝衛門が中国の薬学本「本草網目」からヒントを得て、
 「反本丸」(へんぽんがん)と称し、薬として牛肉を流通させたとの事です。
 寛政年間以降、彦根藩から将軍家や諸大名へ牛肉を贈った記録が
 「御城使寄合留帳」として残されています。
 1792年(寛政4年)には、老中であった松平定信に贈っています。
 定信は牛肉が好きだったようで、老中を退いた後も所望しています。
 1803年(享和3年)には、老中牧野忠精を通じて11代将軍徳川家斉に献上され、
 翌年にも内命によって献上しています。
 詳しくは下記に一覧が載っています。
 https://www.omigyu.jp/contents/2016/06/post-8.php

 水戸藩の徳川斉昭も牛肉が好きだったようで、
 1835年(天保6年)に贈った記録があります。
 斉昭は、彦根藩から献上される近江牛の味噌漬けを好み、
 毎回の献上を楽しみにしていましたが、
 井伊直弼は、大老になった際に領内での牛の屠殺を禁じ、献上をやめてしまいます。
 斉昭は、使いを立てて何度も再開を要請しますが、井伊直弼はまったく応じず、
 遂に、斉昭自らが江戸城で井伊に懇願するに至ります。
 しかし、直弼は、牛馬を殺生するなどとは野蛮人のすることだと斉昭を嘲笑し、
 断ってしまいます。
 これに対して、斉昭の家来である水戸藩士たちは、
 主君を愚弄し恥をかかせたと激怒し、井伊を襲う事になったとの事です。

 水戸庶民は、桜田門外の変のことを
 「烈公の肉の怨みを水戸藩士が討ち晴らした」「すき焼き討ち入り」「御牛騒動」と
 言っていたとの事です。
 桜田門外の変の僅か10日後に出版されたという瓦版
 (出典:桜田門外牛騒動之図「幕末確定史料大成 
 官武通紀・桜田騒動記(玉蟲左太夫)」)には、
 桜田門外の乱闘が描かれ、中央に牛の首の絵が、
 左下方に「モウ御免と桜田門」、「食べ物の恨み恐ろし雪の朝」
 「大老が牛の代わりに首切られ」と詠まれているとの事です。

 井伊直弼と徳川斉昭は、将軍継嗣問題で激しく対立します。
 斉昭の実子の一橋慶喜を推す派を退け、
 紀州藩主徳川慶福が将軍となり家茂となりますが、
 そうした政争が牛肉の話に仮託されて庶民には伝わっていたのかも知れません。

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