1855年(安政2年)10月2日の夜半、江戸の町を巨大な地震が襲います。
所謂安政の江戸地震です。
マグニチュード6.9と推定される、直下型の地震でした。
被害は、記録で分かる町方だけで死者4000人余り、
武家方は不明ですが、やはり同数かそれ以上と考えられ、
合わせて、少なく見積もっても7000人を上回る犠牲者が出たと推定されています。
当時の日本は、天災と飢餓、そしてペリーの率いる黒船の来訪など、
社会全般で、不安定な状況でした。
そうした中、地震直後から「鯰絵」という瓦版(錦絵版画)が、
民衆の間で爆発的に広く流布しました。
今で言えば、新聞の号外のようなものでしょう。
地震の源と考えられていた鯰をモチーフに、様々な角度から描かれています。
地震発生の翌日から売られ、
5日後には380種余り、10日後には400種類に達したと言われています。
鯰絵のほとんどは、版元も絵師も分からない、アンダーグラウンドの錦絵でした。
このため、幕府政府から取締も行われたようですが、
一部に限られたものだったようです。
この鯰絵を最初に考え出したのが、
「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」で知られる、
幕末から明治にかけての戯作者である、仮名垣魯文であると、
最近読んだ、野口武彦さんの「安政江戸地震」に載っていました。
仮名垣魯文が、絵師河鍋暁斎と組んで作ったのが最初であると、
自分で言っていたとの事です。
江戸時代には、一応の禁制品でしたから、あるいは明治維新後の事かも知れません。
魯文は、後に地震ドキュメントの「安政見聞誌」を出版し、
大当たりをしています。
鯰絵の経験が活かされたのだと思います。
鯰絵について、ネット上で公開されているのが幾つかあります。
参考までに、社会事業大学のライブラリーを載せておきます。
http://www.jcsw-lib.net/namazu/index.html
所謂安政の江戸地震です。
マグニチュード6.9と推定される、直下型の地震でした。
被害は、記録で分かる町方だけで死者4000人余り、
武家方は不明ですが、やはり同数かそれ以上と考えられ、
合わせて、少なく見積もっても7000人を上回る犠牲者が出たと推定されています。
当時の日本は、天災と飢餓、そしてペリーの率いる黒船の来訪など、
社会全般で、不安定な状況でした。
そうした中、地震直後から「鯰絵」という瓦版(錦絵版画)が、
民衆の間で爆発的に広く流布しました。
今で言えば、新聞の号外のようなものでしょう。
地震の源と考えられていた鯰をモチーフに、様々な角度から描かれています。
地震発生の翌日から売られ、
5日後には380種余り、10日後には400種類に達したと言われています。
鯰絵のほとんどは、版元も絵師も分からない、アンダーグラウンドの錦絵でした。
このため、幕府政府から取締も行われたようですが、
一部に限られたものだったようです。
この鯰絵を最初に考え出したのが、
「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」で知られる、
幕末から明治にかけての戯作者である、仮名垣魯文であると、
最近読んだ、野口武彦さんの「安政江戸地震」に載っていました。
仮名垣魯文が、絵師河鍋暁斎と組んで作ったのが最初であると、
自分で言っていたとの事です。
江戸時代には、一応の禁制品でしたから、あるいは明治維新後の事かも知れません。
魯文は、後に地震ドキュメントの「安政見聞誌」を出版し、
大当たりをしています。
鯰絵の経験が活かされたのだと思います。
鯰絵について、ネット上で公開されているのが幾つかあります。
参考までに、社会事業大学のライブラリーを載せておきます。
http://www.jcsw-lib.net/namazu/index.html