天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

鯰絵

2013-03-20 | Weblog
 1855年(安政2年)10月2日の夜半、江戸の町を巨大な地震が襲います。
 所謂安政の江戸地震です。
 マグニチュード6.9と推定される、直下型の地震でした。
 被害は、記録で分かる町方だけで死者4000人余り、
 武家方は不明ですが、やはり同数かそれ以上と考えられ、
 合わせて、少なく見積もっても7000人を上回る犠牲者が出たと推定されています。

 当時の日本は、天災と飢餓、そしてペリーの率いる黒船の来訪など、
 社会全般で、不安定な状況でした。
 そうした中、地震直後から「鯰絵」という瓦版(錦絵版画)が、
 民衆の間で爆発的に広く流布しました。
 今で言えば、新聞の号外のようなものでしょう。
 地震の源と考えられていた鯰をモチーフに、様々な角度から描かれています。
 地震発生の翌日から売られ、
 5日後には380種余り、10日後には400種類に達したと言われています。

 鯰絵のほとんどは、版元も絵師も分からない、アンダーグラウンドの錦絵でした。
 このため、幕府政府から取締も行われたようですが、
 一部に限られたものだったようです。

 この鯰絵を最初に考え出したのが、
 「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」で知られる、
 幕末から明治にかけての戯作者である、仮名垣魯文であると、
 最近読んだ、野口武彦さんの「安政江戸地震」に載っていました。
 仮名垣魯文が、絵師河鍋暁斎と組んで作ったのが最初であると、
 自分で言っていたとの事です。
 江戸時代には、一応の禁制品でしたから、あるいは明治維新後の事かも知れません。
 魯文は、後に地震ドキュメントの「安政見聞誌」を出版し、
 大当たりをしています。
 鯰絵の経験が活かされたのだと思います。

 鯰絵について、ネット上で公開されているのが幾つかあります。
 参考までに、社会事業大学のライブラリーを載せておきます。
 http://www.jcsw-lib.net/namazu/index.html
コメント (2)
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山中與幽人對酌

2013-03-04 | Weblog
 中国の唐の時代の詩人である李白に、「山中與幽人對酌」と言う詩があります。
 「一杯一杯復一杯」と言う句で有名ですが、
 同一文字の使用を避けるという作詩のルールを無視して、
 正に酒飲みのリズムを出していると思います。
 白文及び読み下し文は下記の通りです。

 山中與幽人對酌
 兩人對酌山花開
 一杯一杯復一杯
 我醉欲眠卿且去
 明朝有意抱琴來

 「山中で幽人と対酌す 」
 両人対酌して山花開く
 一杯一杯 また一杯
 我酔うて眠らんと欲す 卿、しばらく去れ
 明朝 意有らば琴を抱いて来たれ

 「幽人」とは、世俗を避けてひっそりと隠れ住む人、隠者の事です。
 酔って眠くなったから帰ってくれと言う感じで、
 物事に拘らない大らかさがあります。
 身勝手だとも言えるかも知れませんが・・・。
 李白の詩の中でも傑作の一つだと思います。

 この「幽人」とは誰かと考察した注釈書はないようですが、
 これは、陶淵明なのではないかとの説を読んだので、記しておきます。
 陶淵明は、中国六朝時代の東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人です。 
 自伝的な作品である、「五柳先生伝」や
 桃源郷の語源となった「桃花源記」で知られています。
 酒を愛し、隠者的な生活を好んだ人物として、中国の文人の理想と考えられていました。
 また、五柳先生を描いた絵には、琴を演奏する姿が載せられる事が多く、
 翌朝、琴を抱いて来いと言うイメージにも合います。

 「文選」の編者として知られる、梁の昭明太子蕭統が書いた
 「陶淵明伝」には、陶淵明が、酒を酌み交わし、先に酔うと、
 「我酔うて眠らんと欲す。卿、去るべし。」と言っていたとの記述があります。
 李白は、この故事をそのまま使っています。

 4世紀から5世紀にかけて生きた陶淵明と、
 8世紀の詩人である李白の間には、300年近くの年月がありますが、
 共に世俗を離れる事を理想とし、酒を愛した詩人である事からすると、
 李白が陶淵明を念頭に置きながら、
 この詩を作ったとしても不思議ではないかも知れません。
 この説は、一海知義さんの「陶淵明」に載っていた話です。
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