天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

ベルナール・ギー

2011-09-17 | Weblog
 ベルナール・ギーは、
 1261年フランス中南部のリムーザンに生まれたドミニコ会の修道士です。
 彼が有名なのは、中世キリスト教の異端審問官として活躍したためです。

 ウンベルト・エコーの推理小説の傑作「薔薇の名前」に実名で登場します。
 「薔薇の名前」は、映画化されましたが、
 F.マーリー・エイブラハム
 (映画「アマデウス」ではサリエリを演じた俳優です。)が
 ギーに扮していました。
 物語では、修道院に到着したギー一行は、
 早速異端の容疑者を見つけ、異端審問を行って火刑を行います。
 そして、最後には、農民達に追われて馬車が転覆して死亡しますが、
 これは完全なフィクションです。

 しかしながら、異端審問に彼が熱意を持っていた事は、事実だったようです。
 様々な資料を集めて、1304年にドミニコ会総長に、
 「異端審問の実務」を提出しています。
 彼は、執筆が好きだったようで、この他にも多くの書物を著してします。
 1307年、彼は異端審問官に任命され、トゥールズに赴きます。
 その後、1323年までの間、その役職に就いていますが、
 他の役職も兼ねていたようで、実際に審問を行わなかった年もあるようです。

 彼が著したとされる「トゥールズ判決集」が残っています。
 これによると、彼が判決を下したのは、930人です。
 この内、89人が既に故人となっていた人でした。
 更に、40人が逃亡中です。
 彼が宣告した火刑は42人、投獄が307人となっています。
 残りの人に対しては、巡礼、あるいは十字の着用となっています。

 12世紀末頃から、キリスト教の内部では、
 「ワルド派」、「カタリ派」といった異端が登場します。
 当時は、ローマ教皇の権力が最も強かった時代でした。
 こうした大規模な異端に対抗する過程の中で、
 異端審問が教皇直属の機関として開始された訳です。
 異端に対しては、火刑を含む厳し対応もありましたが、
 全部火刑にした訳ではありません。
 しかも、火刑を執行するのは、教会ではなく、
 世俗の権力(国王などですね)に、形式的ですが委ねられていました。

 ギーは、その後数箇所の司教を転々として、
 1332年ロデーヴの司教として亡くなります。
 数多くの書物を残し、異端審問に関するものも多かったために、
 彼は冷酷でサディスティックなイメージになってしまったのかも知れません。
 以上、渡辺昌美さんの「異端審問」に載っていた話です。
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けし坊主母親となる

2011-09-01 | Weblog
 以前、「御成道の達磨」と言うタイトルで、
 藤岡屋由蔵の話を載せましたが、その藤岡屋の日記の中に、
 「けし坊主 母親となること」との記事があります。

 けし坊主とは、乳幼児の髪型のことで、
 8歳の女の子が男の子を産んだと言うニュースです。
 藤岡屋日記ばかりでなく、当時の随筆などにも多数出ている話で、
 江戸の町で大変な話題になった事は間違いありません。
 出典によって、少しづつ異同はあるものの、
 大筋では、以下のような話になっています。

 1812年(文化9年)、下総国相馬郡藤代宿(現茨城県北相馬郡藤代町)で、
 僅か8歳の女の子が、男の子を産みます。
 女の子の名前は、「とや」と言い、
 男の子は「文九郎」と名付けられたようです。
 「とや」の父親三吉が代官に提出した報告書によると、
 「とや」は8歳ではありましたが、11歳位には見えたようで、
 4歳の時から生理があったようです。
 お腹が大きくなって来たので、医師に見せて薬を飲ませたり、
 灸を据えたりしましたが、良くならず、次第にお腹が大きくなり、
 お乳も色付いて来たとの事です。
 その頃から、懐妊ではないかと考えていたようですが、
 無事に出産できないだろうと不憫に思っていたところ、
 それほどの難産ではなく産んだようです。

 8歳の女の子が出産できるのかどうか分かりませんが・・・。
 この話、幼児の髪型の少女が、健康な男子を産んで、
 少女には似合わない豊満な乳房をはだけて、嬰児に授乳しているとの一条が、
 多くの興味を引いた感じがあります。
 多くの見物人が集まり、祝儀も沢山集まって、
 貧乏だった家がすっかり裕福になったと伝えられています。
 8歳の女の子と何すると、今の世の中では、完全な犯罪になりますが、
 当時はそのような事もなく、更に父親の穿鑿もされなかったようで、
 父親の名前は伝わっていません。
 「とや」のその後は分かっていませんが、文九郎は途中盲目になり、
 19歳で夭逝したと伝えられています。

 「藤岡屋日記」には、この他、人が狸を産んだ話や、
 70歳の夫と71歳の妻の間に子どもが産まれた話なども出て来ます。
 事実かどうかはともかくとして、
 このような奇談を江戸の庶民は好んだのでしょうね。
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