天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

佐久間象山とナポレオン

2021-06-19 | Weblog
 前回、頼山陽が「仏郎王歌」を詠んだ事は書きました。
 その後、1821年にナポレオンは、セントヘレナ島で死去しますが、
 日本国内では、研究が進みました。
 1826年(文政9年)には、幕府天文方書物奉行の高橋景保
 『丙戌異聞(へいじゅついぶん)』を著しています。
 これは、オランダの軍人のスチュルレルからの伝聞をまとめたナポレオン伝です。
 高橋景保は伊能忠敬の師で、忠敬の没後、彼の実測をもとに
 『大日本沿海輿地全図』を完成させますが、シーボルト事件に関係して投獄され、
 獄中で死亡しています。
 1839年(天保10年)、蘭学者の小関三英が『那波列翁伝』を著しています。
 これは、オランダ人リンデンの『ナポレオン伝』の翻訳です。
 小関三英は、蛮社の獄に関連して自害しています。

 蘭学者の佐久間象山も「題那波列翁像」との漢詩を残しています。
 象山は、1854年(嘉永7年)、
 門弟の吉田松陰がペリーの艦隊で密航を企て失敗した事に連座して、
 伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、
 さらにその後は1862年(文久2年)まで、松代での蟄居を余儀なくされます。
 その蟄居中の徒然に、オランダ語の書物で、ナポレオンの伝記を読み、
 いたく感銘してやはり漢詩を詠んでいます。
 それが下記の「題那波利翁像」です。

 「題那波利翁像」
 何れの國 何れの代に 英雄無からん
 平生 欽慕す 波利翁
 邇來 門を杜して 遺傳を讀み
 怱怱として 年歳の窮まるを知らず
 劍を撫し 天を仰ぎて 空しく慨憤す
 世人 那ぞ 吾が衷を察するを得えんや
 如今 邊警 日に復た月に
 戰船 來去す 海の西東
 外蕃の學藝は 老且つ巧
 我獨遊戲して 孩童に等し
 株を守りて 未だ知らず 他の長を師とするを
 矮舟 誰か能く元戎を操らん
 嗟 君は原と是れ 一書生
 苦學して遂に能く明聰を長ず
 一朝 照破す 當時の敝
 敝を革め害を除きて民情從ふ。
 旌旗の向かう所 靡草の如く
 威信普く加う 歐羅の中
 元主の西征も 道うに足らず
 豐公の北伐も 何ぞ同じきを得ん。
 人生意を得れば 多く意を失う
 大雪 手を翻す 朔北の風
 帝王の事業 未だ終えずと雖も
 收めて 我が將と爲さば 應に庸うる有るべし
 世人の心竅は  豆よりも小さく
 齷齪 寧ぞ知らん 英雄の胸
 自ら奮えば 能く遠大の計を成し
 自ら屈すれば 廓清の功を樹て難し
 安くにか君を九原の下より起たしむるを得て
 謀りごとを同じくし力を戮せて 奸兇を驅からん
 終に 五洲を卷まきて皇朝に歸せしめば
 永く 五洲の宗爲らん。

 この詩も前回の頼山陽の詩と同じく、岩下哲典さんの「江戸のナポレオン伝説」から
 書き写させて頂きました。
 岩下さんは、
 「この詩の中には、単なる欽慕とは異なる、
   幕末における憂国の志士に共通の心のあり方、
  すなわち英雄と自分を同一化することによって、
   志士的活動のエネルギー源とするような
   精神的背景が見られるのではないかと思う。」と述べています。

 2015年11月5日に、長野市松代の象山神社を訪れた事があります。
 この時鳥居脇に象山の騎馬像がありました。
 2010年(平成22年)に作られたもので、原型は田畑功さんとの事です。
 見た時に、京都で騎馬で闊歩していた象山の姿を描いたのかなと思いましたが、
 あるいは、象山のナポレオンへの憧れを踏まえて、
 ジャック=ルイ・ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』も
 作者の念頭にあったのかも知れません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナポレオンを国内に広めた人

2021-06-03 | Weblog
 先日、岩下哲典さんの「江戸のナポレオン伝説」と言う本を読みました。
 江戸時代後期に日本に伝わってきたナポレオン情報を軸に、
 当時の日本の海外からの情報の伝播の仕方などを述べた歴史書です。
 その中で、ナポレオンを国内に広めた人が、
 頼山陽だったとの事に、驚きました。

 頼山陽は、1781年1月21日(安永9年12月27日)に大阪で生まれた、
 江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人です。
 主著に『日本外史』があり、幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えました。

 ナポレオンの事が初めて日本に入ったのは、
 1813年頃の事だと岩下さんは考えています。
 1811年、北太平洋の測量のため、ロシア海軍ディアナ号艦長ゴロウニンが、
 国後島に少人数で上陸したところを幕府側に捕縛され、松前に監禁された、
 ゴロウニン幽囚事件が発端のようです。
 ディアナ号に残った副艦長リゴルドは報復措置として、
 幕府御用商人高田屋嘉兵衛を捕え、
 後に、双方の人質交換が成立して、1813 年この一件は決着しました。
 その辺の交渉過程の中で、ナポレオンの名あるいは存在が話題になったようです。
 しかし、それは幕閣の一部の人の知識でした。

 1818年(文政元年)、頼山陽は九州に行きます。
 特に目的があった訳ではなく、
 岩下さんは、「書画骨董でもあさってあわよくば一儲けしょう」と書いています。
 長崎で、ナポレオンのロシア遠征に参加した従軍医であった
 出島のオランダ商館の医師から、ナポレオンの事績を聞きました。
 この時に、オランダ商館付き医官としてクラッセ・ハーヘンの名前がありますが、
 山陽が直接彼から聞いたのかどうかは確証がないとの事です。

 話を聞いた山陽は、とても感動してしまったようで、
 「仏郎王歌(ふらんすおうのうた)」との詩を詠みました。

 以下、上記書に記されていた詩を書き写しました。

「仏郎王歌」
 沸郎王
 王は何れの處より起こる 大西洋
 太白 精を集めて 眼に碧光あり
 天 韜略を付して 其の腸を鋳る
 欧邏を餐食して 東に疆を拓き
 誓いて崑崙を以って中央を為さんとす
 国内の游手収めて編行し
 兵に妻子無く 武趪趪たり
 挺を縮めて銃と為し 伸して槍と為し
 銃退けば 鎗進み 互に撞搪す 
 向う所前無く 血玄黄たり
 独り卾羅有り 相頡頏す 
 潜に謀賊を遣して 剣鋩を懐にせしむ
 王覚りて 故に之と翺翔す
 能く刺せ 我を刺すも 亡ぐる能わず
 汝が主 何ぞ旗鼓もて当たらざるや
 客を遣り 即ち発する 陣堂々たり
 絨旗 天を蔽いて日に芒無し
 五戦して国に及び 我が武楊り
 卾羅は魚の釜湯に泣くが如し
 何ぞ料らん 大雪 平地に一丈強なるを
 王馬八千 凍え且つ僵る   
 運路梗塞して望むべからず
 馬肉 方寸 日に糧に充つ
 王曰く 天は仏郎を右けず
 我吾が衆を活かさん 降るも何ぞ妨げあらんと
 単騎敵に降れば 敵敢て戕わず
 之を阿墨に放ちて 君臣慶す       
 戌寅の歳に 吾れ碕陽に遊び 
 蛮医に遭逢して 其の詳を聞けり
 自ら言う 陣に在りて金創を療す
 馬を食いて 死を免がれしことを今に忘れずと 
 君見ずや 何の国か 貪ること狼の如き有る蔑けん
 勇夫は重閉して 預防を貴ぶ   
 又見ずや 禍福は縄の如くして 何ぞ常なるべけん
 窮兵は黷武して 自殃を毎にす
 方今 五洲 奪攘を休むるも
 何ぞ知らん 殺運の西荒を被うを  
 詩を作り 異を記して 故郷に伝う
 猶お覚ゆ 殺気 奚嚢より迸しるを


 山陽の詩は、多くの若者の心を捉え、
 一挙にナポレオンの名前が国内に広まりました。
 そしてその影響を受けた人の中には有名な人もいました。
 長くなるので、その話は次回書きたいと思います。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする