前回、頼山陽が「仏郎王歌」を詠んだ事は書きました。
その後、1821年にナポレオンは、セントヘレナ島で死去しますが、
日本国内では、研究が進みました。
1826年(文政9年)には、幕府天文方書物奉行の高橋景保
『丙戌異聞(へいじゅついぶん)』を著しています。
これは、オランダの軍人のスチュルレルからの伝聞をまとめたナポレオン伝です。
高橋景保は伊能忠敬の師で、忠敬の没後、彼の実測をもとに
『大日本沿海輿地全図』を完成させますが、シーボルト事件に関係して投獄され、
獄中で死亡しています。
1839年(天保10年)、蘭学者の小関三英が『那波列翁伝』を著しています。
これは、オランダ人リンデンの『ナポレオン伝』の翻訳です。
小関三英は、蛮社の獄に関連して自害しています。
蘭学者の佐久間象山も「題那波列翁像」との漢詩を残しています。
象山は、1854年(嘉永7年)、
門弟の吉田松陰がペリーの艦隊で密航を企て失敗した事に連座して、
伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、
さらにその後は1862年(文久2年)まで、松代での蟄居を余儀なくされます。
その蟄居中の徒然に、オランダ語の書物で、ナポレオンの伝記を読み、
いたく感銘してやはり漢詩を詠んでいます。
それが下記の「題那波利翁像」です。
「題那波利翁像」
何れの國 何れの代に 英雄無からん
平生 欽慕す 波利翁
邇來 門を杜して 遺傳を讀み
怱怱として 年歳の窮まるを知らず
劍を撫し 天を仰ぎて 空しく慨憤す
世人 那ぞ 吾が衷を察するを得えんや
如今 邊警 日に復た月に
戰船 來去す 海の西東
外蕃の學藝は 老且つ巧
我獨遊戲して 孩童に等し
株を守りて 未だ知らず 他の長を師とするを
矮舟 誰か能く元戎を操らん
嗟 君は原と是れ 一書生
苦學して遂に能く明聰を長ず
一朝 照破す 當時の敝
敝を革め害を除きて民情從ふ。
旌旗の向かう所 靡草の如く
威信普く加う 歐羅の中
元主の西征も 道うに足らず
豐公の北伐も 何ぞ同じきを得ん。
人生意を得れば 多く意を失う
大雪 手を翻す 朔北の風
帝王の事業 未だ終えずと雖も
收めて 我が將と爲さば 應に庸うる有るべし
世人の心竅は 豆よりも小さく
齷齪 寧ぞ知らん 英雄の胸
自ら奮えば 能く遠大の計を成し
自ら屈すれば 廓清の功を樹て難し
安くにか君を九原の下より起たしむるを得て
謀りごとを同じくし力を戮せて 奸兇を驅からん
終に 五洲を卷まきて皇朝に歸せしめば
永く 五洲の宗爲らん。
この詩も前回の頼山陽の詩と同じく、岩下哲典さんの「江戸のナポレオン伝説」から
書き写させて頂きました。
岩下さんは、
「この詩の中には、単なる欽慕とは異なる、
幕末における憂国の志士に共通の心のあり方、
すなわち英雄と自分を同一化することによって、
志士的活動のエネルギー源とするような
精神的背景が見られるのではないかと思う。」と述べています。
2015年11月5日に、長野市松代の象山神社を訪れた事があります。
この時鳥居脇に象山の騎馬像がありました。
2010年(平成22年)に作られたもので、原型は田畑功さんとの事です。
見た時に、京都で騎馬で闊歩していた象山の姿を描いたのかなと思いましたが、
あるいは、象山のナポレオンへの憧れを踏まえて、
ジャック=ルイ・ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』も
作者の念頭にあったのかも知れません。
その後、1821年にナポレオンは、セントヘレナ島で死去しますが、
日本国内では、研究が進みました。
1826年(文政9年)には、幕府天文方書物奉行の高橋景保
『丙戌異聞(へいじゅついぶん)』を著しています。
これは、オランダの軍人のスチュルレルからの伝聞をまとめたナポレオン伝です。
高橋景保は伊能忠敬の師で、忠敬の没後、彼の実測をもとに
『大日本沿海輿地全図』を完成させますが、シーボルト事件に関係して投獄され、
獄中で死亡しています。
1839年(天保10年)、蘭学者の小関三英が『那波列翁伝』を著しています。
これは、オランダ人リンデンの『ナポレオン伝』の翻訳です。
小関三英は、蛮社の獄に関連して自害しています。
蘭学者の佐久間象山も「題那波列翁像」との漢詩を残しています。
象山は、1854年(嘉永7年)、
門弟の吉田松陰がペリーの艦隊で密航を企て失敗した事に連座して、
伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、
さらにその後は1862年(文久2年)まで、松代での蟄居を余儀なくされます。
その蟄居中の徒然に、オランダ語の書物で、ナポレオンの伝記を読み、
いたく感銘してやはり漢詩を詠んでいます。
それが下記の「題那波利翁像」です。
「題那波利翁像」
何れの國 何れの代に 英雄無からん
平生 欽慕す 波利翁
邇來 門を杜して 遺傳を讀み
怱怱として 年歳の窮まるを知らず
劍を撫し 天を仰ぎて 空しく慨憤す
世人 那ぞ 吾が衷を察するを得えんや
如今 邊警 日に復た月に
戰船 來去す 海の西東
外蕃の學藝は 老且つ巧
我獨遊戲して 孩童に等し
株を守りて 未だ知らず 他の長を師とするを
矮舟 誰か能く元戎を操らん
嗟 君は原と是れ 一書生
苦學して遂に能く明聰を長ず
一朝 照破す 當時の敝
敝を革め害を除きて民情從ふ。
旌旗の向かう所 靡草の如く
威信普く加う 歐羅の中
元主の西征も 道うに足らず
豐公の北伐も 何ぞ同じきを得ん。
人生意を得れば 多く意を失う
大雪 手を翻す 朔北の風
帝王の事業 未だ終えずと雖も
收めて 我が將と爲さば 應に庸うる有るべし
世人の心竅は 豆よりも小さく
齷齪 寧ぞ知らん 英雄の胸
自ら奮えば 能く遠大の計を成し
自ら屈すれば 廓清の功を樹て難し
安くにか君を九原の下より起たしむるを得て
謀りごとを同じくし力を戮せて 奸兇を驅からん
終に 五洲を卷まきて皇朝に歸せしめば
永く 五洲の宗爲らん。
この詩も前回の頼山陽の詩と同じく、岩下哲典さんの「江戸のナポレオン伝説」から
書き写させて頂きました。
岩下さんは、
「この詩の中には、単なる欽慕とは異なる、
幕末における憂国の志士に共通の心のあり方、
すなわち英雄と自分を同一化することによって、
志士的活動のエネルギー源とするような
精神的背景が見られるのではないかと思う。」と述べています。
2015年11月5日に、長野市松代の象山神社を訪れた事があります。
この時鳥居脇に象山の騎馬像がありました。
2010年(平成22年)に作られたもので、原型は田畑功さんとの事です。
見た時に、京都で騎馬で闊歩していた象山の姿を描いたのかなと思いましたが、
あるいは、象山のナポレオンへの憧れを踏まえて、
ジャック=ルイ・ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』も
作者の念頭にあったのかも知れません。