天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

強請り

2018-04-21 | Weblog
 最近読んだ、神坂次郎著の「おかしな大名たち」に
 強請り(ゆすり)の語源が載っていました。
 語源は例幣使の行状から出た言葉との事でした。

 例幣使に関しては、以前書きました。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/de62e1ba46bd4d7fe7a3c433e9bfef56
 これは、篠田鉱造の著した「幕末百話」に載っていた話からで、
 強請りの語源に近い話もありましたので、書き改めたいと思います。

 天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献することを奉幣と言います。
 天皇が直接親拝して幣帛を奉ることもありますが、
 天皇の使い・勅使を派遣して奉幣せしめることが多く、
 この使いの者のことを奉幣使と言いました。
 中世以降、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣のことを特に例幣と呼ぶようになります。
 この例に基づくものなのでしょう、1646年(正保3年)から、
 日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まりました。
 家康を尊敬していた三代将軍家光が始めたものです。
 江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かったとの事です。

 例幣使は、毎年天子を補佐する要職から選ばれますが、
 官位は4位と高くても、当時の公家は経済的に豊かではありませんでした。
 生活に困っていた公家は、日用品をつけで買っていましたが、
 例幣使に任命されると、
 こうした出入りの業者から供奉にしてくれと強烈な売り込みがあります。
 公家の方では、供奉に加えてやって、それまでの借金を帳消しにしてもらう訳です。

 この随員の供奉達は、道中疲れたといって駕籠に乗ると、
 たちまち駕籠を揺さぶり始めます。
 揺すられたかご屋の人足は担げません。
 供奉達は、暗に袖の下を要求し、それでも応じないとみると、
 大きく揺さぶり、わざと駕籠からころげ落ち、
 「おのれ、ようも振り落としおったな。このうえは公儀のお裁きを・・・」と
 と凄んでみせたとの事です。
 そのため仕方なく、「なにとぞ、ご内聞に」と金銭をつかませてしまう訳です。
 ここから、おどして金銭を奪い取る事を意味する
 強請りと言う言葉になったとの事でした。
 強請りは「揺すり」とも書きますが、こちらの方が本来の意味に近い感じがします。

 随行者ですらそうなのですから、公家が、この際とばかりに無理難題を言って、
 私腹を肥やした事は言うまでもありません。
 使命が終わった後に、江戸に寄って、
 1年前の例幣を切って、多くの大名家に送り付け、
 これから例幣使がお見舞いに行くと言うと、
 来られては大変と、どこの大名家でも、何がしかの金品を送って
 来訪を遠慮してもらったそうです。
 それだけでも多くの財産を蓄えられたようです。

 また、江戸では、宿を取らず新築した家に泊まり、
 その家に付属している家財や什器などを
 残らず長持ちに入れて持ち帰ってしまったとの事でした。
 このため、例幣使を一度やると、公卿の邸も立ち直る位の役得があり、
 貧乏公家達の間では、この役が垂涎の的であったようです。

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百目鬼

2018-04-08 | Weblog
 宇都宮市内の我が家の近くに百目鬼(どうめき)通りがあります。
 位置的には二荒山神社の北側の細い路地です。
 かつては、多くの飲み屋さんがあったのですが、
 ここのところめっきり店が減って寂しい感じがします。

 この百目鬼通りの由来は何だろうとネットで検索していたら、
 ウィキペディアに
 村上健司編集の「妖怪大事典」を元にした記述がありました。
 そこで、この記事を元にまとめてみました。

 平安時代中期、常陸国(現在の茨城県)で起こった
 平将門の乱を鎮圧したのが、下野国の武将藤原秀郷です。
 この功績で、秀郷は朝廷から恩賞として下野国司に任ぜられ、
 さらに武蔵国司・鎮守府将軍を兼務することとなります。

 秀郷は宇都宮の地に館を築き、
 ある日その近くで狩りを行っていました。
 狩りの帰り道、
 田原街道・大曽の里を通りかかると老人が現れ、
 「この北西の兎田という馬捨場に百の目を持つ鬼が現れる」事を
 告げられます。
 秀郷が兎田に行って待っていると、
 丑三つ時の頃、俄かに雲が巻き起こり、
 両手に百もの目を光らせ、
 全身に刃のような毛を持つ身の丈十尺の鬼が現れ、
 死んだ馬にむしゃぶりつきました。
 秀郷は弓を引いて最も光る目を狙って矢を放ち、
 矢は鬼の急所を貫き、
 鬼はもんどりうって苦しみながら、
 現在の二荒山神社のある明神山の麓まで逃げますが、
 ここで倒れて動けなくなります。
 鬼は体から炎を噴き、裂けた口から毒気を吐いて苦しんだため、
 秀郷にも手が付けられない状態となります。
 仕方なく秀郷はその日は一旦館に引き上げ、
 翌朝、秀郷は鬼が倒れていた場所に行きますが、
 黒こげた地面が残るばかりで
 鬼の姿は消えていたとの事です。
 それから400年の時が経った、室町時代、
 明神山の北側にある塙田村・本願寺の住職が怪我をするとか
 寺が燃えるといった事件が続きました。
 その内、智徳上人という徳深い僧が住職となると、
 その説教に必ず姿を見せる歳若い娘がいましたが、
 この娘こそ400年前にこの辺りで瀕死の重傷を負った
 鬼の仮の姿で、
 長岡の百穴に身を潜め傷付いた体が癒えるのを待ち、
 娘の姿に身を変えてはこの付近を訪れて、
 邪気を取り戻すため
 自分が流した大量の血を吸っていたのでした。
 本願寺の住職は邪魔であったため襲って怪我を負わせたり、
 寺に火をつけては追い出していました。
 智徳上人はそれを見破り、鬼は終に正体を現します。
 鬼は智徳上人の度重なる説教に心を改め、
 二度と悪さをしないと上人に誓ったとの事です。
 これ以降、この周辺を
 百目鬼と呼ぶようになったと言われています。

 秀郷は、別名田原藤太とも呼ばれ、
 近江三上山の大ムカデを退治したとの伝説のある人物です。
 生没年も明らかになっていなくて、
 宇都宮に住まいしたかどうかも分かりません。
 佐野市には、秀郷の墓と言われる場所が伝えられていますが、
 群馬県の伊勢崎市にも墓と言われる場所が伝えられています。

 しかし、この伝説は宇都宮の地名を上手く取り込んでいて、
 宇都宮の地理が分かる人には、
 ある程度想像できるようになっています。
 なお、本願寺と言うお寺がどこなのかは分かりません。

 近くの地名を調べていて、
 思わぬビックネームが出て来たのに驚きました。
 藤原秀郷は、源氏や平家と並んで武家の棟梁となり、
 後世の多くの武士の先祖とされています。
 例えば
 奥州藤原氏の祖である藤原清衡も秀郷の後裔とされていますし、
 歌人の西行もその一人です。
 当時の有名人だからこそ、
 色々な話の主人公になっているのかも知れませんが。

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