1970年(昭和45年)11月25日に小説家三島由紀夫は、
東京都市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で、
当時の東部方面総監を人質にして檄を飛ばした上で、割腹自殺を遂げました。
東部方面総監部は、現在朝霞駐屯地に移転していますが、
この時の建物は、陸軍士官学校として建てられたもので、
戦争中は参謀本部、終戦後は極東国際軍事裁判が行われました。
現在は市ヶ谷記念館として、事前予約制ですが、一般に公開されています。
三島事件の際の刀傷が今も柱に残っています。
その写真などは下記をご覧下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi/64342533.html
僕は、この事件のあった時は高校3年生で、当日は校内マラソン大会の日でした。
誘導案内で立っていた同級生などは、暇なのでラジオを持っていましたが、
彼等から東京でとんでもない事件が起きているとの話を聞き、
何が起こっているのか知りたくて、ゴールまで必死に走った覚えがあります。
この日、永六輔さんは、やはりどこかを旅していたようです。
三島の事件の概要をニュースで知ってから、列車に乗り込みました。
列車に乗っている客は、当然ニュースなどは見たり聞いたりしていません。
永さんが列車に乗り込んだら、
お客の1人が、「あ!三島由紀夫だ。」と叫んだそうです。
確かに三島と永さんは、面長の風貌で似ています。
それで勘違いしたのでしょう。
言われた永さんは、ゾッとしたと、後にラジオ番組で話しているのを聴きました。
先日、永さんが83歳で亡くなりました。
僕は、昔から永さんが好きで、信頼していました。
ラジオ番組を聴いたり、「芸人 その世界」など多くの著作を読みました。
永さんの訃報を聞いて、真っ先に思い出したのが、
この三島事件に関する話でした。
ちなみに、永さんは1933年(昭和8年)生まれ、
三島は1925年(大正14年)生まれですから、永さんの方が8歳年下でした。
東京都市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で、
当時の東部方面総監を人質にして檄を飛ばした上で、割腹自殺を遂げました。
東部方面総監部は、現在朝霞駐屯地に移転していますが、
この時の建物は、陸軍士官学校として建てられたもので、
戦争中は参謀本部、終戦後は極東国際軍事裁判が行われました。
現在は市ヶ谷記念館として、事前予約制ですが、一般に公開されています。
三島事件の際の刀傷が今も柱に残っています。
その写真などは下記をご覧下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi/64342533.html
僕は、この事件のあった時は高校3年生で、当日は校内マラソン大会の日でした。
誘導案内で立っていた同級生などは、暇なのでラジオを持っていましたが、
彼等から東京でとんでもない事件が起きているとの話を聞き、
何が起こっているのか知りたくて、ゴールまで必死に走った覚えがあります。
この日、永六輔さんは、やはりどこかを旅していたようです。
三島の事件の概要をニュースで知ってから、列車に乗り込みました。
列車に乗っている客は、当然ニュースなどは見たり聞いたりしていません。
永さんが列車に乗り込んだら、
お客の1人が、「あ!三島由紀夫だ。」と叫んだそうです。
確かに三島と永さんは、面長の風貌で似ています。
それで勘違いしたのでしょう。
言われた永さんは、ゾッとしたと、後にラジオ番組で話しているのを聴きました。
先日、永さんが83歳で亡くなりました。
僕は、昔から永さんが好きで、信頼していました。
ラジオ番組を聴いたり、「芸人 その世界」など多くの著作を読みました。
永さんの訃報を聞いて、真っ先に思い出したのが、
この三島事件に関する話でした。
ちなみに、永さんは1933年(昭和8年)生まれ、
三島は1925年(大正14年)生まれですから、永さんの方が8歳年下でした。