天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

三島事件と永六輔さん

2016-07-14 | Weblog
 1970年(昭和45年)11月25日に小説家三島由紀夫は、
 東京都市ヶ谷の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で、
 当時の東部方面総監を人質にして檄を飛ばした上で、割腹自殺を遂げました。
 東部方面総監部は、現在朝霞駐屯地に移転していますが、
 この時の建物は、陸軍士官学校として建てられたもので、
 戦争中は参謀本部、終戦後は極東国際軍事裁判が行われました。
 現在は市ヶ谷記念館として、事前予約制ですが、一般に公開されています。
 三島事件の際の刀傷が今も柱に残っています。
 その写真などは下記をご覧下さい。
 http://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi/64342533.html

 僕は、この事件のあった時は高校3年生で、当日は校内マラソン大会の日でした。
 誘導案内で立っていた同級生などは、暇なのでラジオを持っていましたが、
 彼等から東京でとんでもない事件が起きているとの話を聞き、
 何が起こっているのか知りたくて、ゴールまで必死に走った覚えがあります。

 この日、永六輔さんは、やはりどこかを旅していたようです。
 三島の事件の概要をニュースで知ってから、列車に乗り込みました。
 列車に乗っている客は、当然ニュースなどは見たり聞いたりしていません。
 永さんが列車に乗り込んだら、
 お客の1人が、「あ!三島由紀夫だ。」と叫んだそうです。
 確かに三島と永さんは、面長の風貌で似ています。
 それで勘違いしたのでしょう。
 言われた永さんは、ゾッとしたと、後にラジオ番組で話しているのを聴きました。

 先日、永さんが83歳で亡くなりました。
 僕は、昔から永さんが好きで、信頼していました。
 ラジオ番組を聴いたり、「芸人 その世界」など多くの著作を読みました。
 永さんの訃報を聞いて、真っ先に思い出したのが、
 この三島事件に関する話でした。
 ちなみに、永さんは1933年(昭和8年)生まれ、
 三島は1925年(大正14年)生まれですから、永さんの方が8歳年下でした。

コメント (2)
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江戸時代最後の立藩

2016-07-02 | Weblog
 立藩は1万石以上の藩となる事を言います。
 江戸時代と敢えて書いたのは、明治維新後廃藩置県までの間に藩となった、
 所謂維新立藩があったためです。

 この江戸時代の最後に藩となったのが、下野国の高徳藩です。
 慶応2年(1866年)3月の事です。
 藩庁は高徳陣屋に置かれました。
 場所は現在の日光市、元の藤原町の高徳です。
 東武鬼怒川線の駅に高徳がありますが、その辺でしょう。

 大名となったのは、戸田忠至です。
 忠至は、宇都宮藩の家臣として用人や番頭職を歴任し、弘化元年(1844年)6月に家老、
 安政3年(1856年)10月に上席家老になりました。
 文久2年(1862年)閏8月14日、幕府が宇都宮藩の提出した
 天皇の陵である山陵修補の建白を採用しました。
 宇都宮出身の蒲生君平が、全ての天皇陵を歩いて「山陵誌」を著していますが、
 これと関係があるのかも知れません。
 同年10月22日、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、
 忠至は山陵奉行に任じられました。
 元治元年(1864年)1月29日に大名格となり、
 同年7月12日に諸侯に加えられています。
 同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了し、
 慶応元年(1865年)9月25日に幕府はその功績に対し2000両を支給しました。

 元治元年に天狗党の乱が発生すると、
 宇都宮藩は、水戸天狗党の援助要請を拒絶しましたが、
 乱後、追討しなかったために幕府から結託を疑われ、
 宇都宮藩は陸奥棚倉への減移封を命じられそうになりますが、
 山稜修補の功労者であった忠至が朝廷に運動した結果、移封は中止となります。
 この功に報いるため、慶応2年(1866年)3月、
 宇都宮藩主戸田忠友は1万石を分与し、高徳藩を興しました。
 領地は高徳・藤原・塩原など下野で1735石、河内で若江・丹北など5265石、
 他に新田3000石でした。

 忠至は明治維新後、新政府に招かれて山陵修補奉行や京都裁判所副総督、宮内大丞、
 御医師支配、権弁事、参与会計事務局判事などを歴任し、
 1869年(明治2年)に家督を子の戸田忠綱に譲りました。
 忠綱は1870年(明治3年)に下野と河内の両国における所領を上知されて
 下総に所領を与えられたため下総国曽我野に移り、以後は曽我野藩となりました。

 余談ですが、忠至は山稜奉行となりますが、
 その配下に組み込まれたのが、
 孝明天皇の御陵を守るとの名目で結成された御陵衛士です。
 新撰組から分派した伊東甲子太郎などが組織したもので、
 やがて、新撰組との間で、油小路事件と呼ばれる凄惨な闘争に至ります。
 この事件によって、忠至に影響があったかどうかは分かりません。

コメント (2)
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